聴力制限x視力制限人種

2010年7月14日

最近、通勤時間に電車に乗ることがある。
昨日も9時からの大学の講義のため通勤時間帯に電車に乗ったのだが、、、、
通勤通学時間帯の電車ではとくにイヤホンをつけ、携帯電話に見入っている人が多い。
全体の半分くらいはイヤホンを耳に差し込んでいるのではないだろうか。
渋谷駅のホームで私の前を歩いていた人がまさに、耳にイヤホンを、左手には携帯を持ち歩きながらメールに見入っている、、、改札に来た。右手で取り出したカードケースを改札のICリーダーにくっつけた。ゲートが閉じて赤く点灯。それでも携帯から眼をはなさず、カードケースを二度、三度パタパタとリーダーにくっつける。やっと気がついた。
カードケースを見た。はっとしてポケットから別なカードケースを取り出しタッチ。
その間、後ろに何人か、、、いらいら、、、、
改札を通るときくらい携帯から眼をはなしたら?
聴覚は人間の持っている知覚の中で上下左右360度の空間を感知できる能力をもっている。だから、後ろからとか横からとか、あるいは上からとか、眼で見えないところから迫ってくるなにかを知覚することが出来る。
なのに、その聴力をイヤホンでふさぎ、斜め前方に空虚な視線を投げ出しながら歩いている。
一人だけではない。冷静に見てみるとその空虚な表情がなにか恐ろしげに写る。
まるで周りを感じることを拒否しているように見える。視力限定人もおなじ、まわりなど
見たくない、という拒絶姿勢か?
海外でも歩きながらヘッドフォンを耳につけている人はけっこう見かける。
マンハッタンなどで黒人の若い子はヘッドフォンから聞こえる音楽に体をゆすらせながら
リズミカルに歩いている。そんな姿は見ていて楽しいのだが、、東京ではリズムに体を乗せて歩いている人はまず見かけない。聴いているのは英会話のレッスンか?

蒸し暑い通勤通学時間だがこんな人間ウオッチングが楽しい。

ウオッシュレットの無い生活なんて……

2010年7月 4日

数日前から旅に出ている。
何の問題も無く快適に、無目的に無計画に、順調にすごしているのだがひとつだけ不満がある。
昔、多分30年以上まえ、コーヒーに入れる粉末クリームのコマーシャルに“クリープの無いコーヒーなんてコーヒーじゃない”というコピーがあった。
それを拝借してこの不満を表現すると“ウオッシュレットの無い生活なんて生活じゃない”。
この数日、ウオッシュレットの無い生活をして二つのことを感じた。
まず卑近なところから言うと、ウオッシュレットの場合は排便の後のお尻は水で洗う。したがって、トイレットペーパーは使うがもっぱらお尻についた水滴をぬぐうのが目的であり、排便の後をぬぐうという目的はもはやほとんど無くなっている。
つまり、自分はトイレットペーパーで排便の後をぬぐうという行動をほとんど忘れてしまっていて、その技術もなくしてしまっていることに気づく。ウオッシュレットによって機能の退化を起こしているのである。退化しかけた機能を取り戻すのに優に一日かかった。更に悪いことに自分のお尻ももはや紙でごしごし擦られることを忘れてしまっているものだから、退化したお尻拭き機能を取り戻すべくごしごしとトイレットペーパーで擦っているとヒリヒリしてきてしまう。
こんなに文明による自分の機能退化を身近に感じたことはほとんど始めてである。
ウオッシュレットはある種の快感道具である。それゆえにトイレに行く楽しみのひとつにもなっている。ところで、ウオッシュレットのない国の人たちはこの快感を知らないのである。この快感を体験したらきっと自分の家のトイレにもウオッシュレットをつけようと思うだろうし、ホテルならお客様への快感サービスとしてウオッシュレットを備えようとおもうだろう。わたしなんか、ウオッシュレットのあるホテルと無いホテルなら絶対ウオッシュレットのあるホテルを選ぶ。宿泊料が倍も違えば別だが…。
快感は覚えたらやめられなくなる。
ウオッシュレットはまだ先進国でも設備されているところは少ないし、将来中国を考えるととてつもないトイレ需要つまり経済需要が存在する。
たとえば1億世帯あって平均10万円のウオッシュレットをその10%の世帯に売れるとしたら一兆円の需要である。実際はもっと需要は多いだろう。普通のトイレを使っている限り水洗になっただけでも十分かもしれない。しかし、日本のハイテクを駆使したウオッシュレットはその技術でこれだけの経済需要を生み出す。技術が経済需要を創り出すよい例である。技術のみが新たな経済需要を生み出せるといってもよいだろう。たんにお金をばら撒けば需要を喚起できるというのはきわめて一時的なことでしかない。
経済需要を喚起するのにこのような新しい技術成果を活用することをもっと考えるべきである。
とくにウオッシュレットはそのたんなる洗浄機能だけでなく新たな快感も提供する。私ならウオッシュレットの宣伝のコピーに
”あなたのお尻に新たな快感を………ウオッシュレット!”
を使ってみたい。

予定の無い旅

2010年7月 1日

昨日から休みをとって旅行中。
往復の便の時間とホテルの予約以外はいっさい予定なし。


ローラーバッグにTシャツと下着を数セット、短パンを2枚、ビーサンひとつを放り込み、デイバッグにはパーカー、文庫本、スケッチブック、アナログカメラ、それと残念ながらノートパソコンを詰め込んで昨日から出かけている。
往復の便のチケットとホテルの予約はしてあるがそれ以外は何のプランもスケジュールもアポもなし。
初日の今日は朝はひたすら何も無いところを歩き、昼はスーパーで買ったサンドイッチとビール、午後からはもう半年以上も悩まされている肩と腕の痛みの治療をかねてビーチで日光浴。
一時間もねっころがっていると皮膚がひりひりしてきたので起き上がってビーチのそばのバーに転がり込み、さっそくウオッカトニックをオーダー。これを飲みながら本を読む。
あっというまに1時間半ほど過ぎて一冊読み終わってしまったので、せっかく持ってきたカメラをとりだし周りを写す。アナログカメラは不便なことに写したものがすぐ見れない! パソコンにもアップできない。
帰ってから現像するまで何が移っているのかおあずけ。
露出計も何も無い超アナログのマニュアルカメラだからどう写っているのかまったくわからない。
とにかく距離計もなにのだから………すべてが目分量の写真である。
(ブログの写真はバックアップに持ってきたデジカメの写真)

コンテンツホルダーは配信を配信事業者にまかせてよいのか?

2010年6月28日

今年は電子書籍が一気に話題になってきている。数年前からいろいろな試みがなされてきたが、それがここにきてこれまでの技術的な課題が一挙に解消され実用的な環境が揃ってきたためであろう。
ところで電子書籍の議論を見ていると相変わらず紙に印刷されたものがネットで配信されそれを端末で読む、見る、触れる事が出来る議論でとどまっている。この議論にとどまっている限りコンテンツホルダーにとっては書籍など出版物、あるいは新聞などの印刷物の電子配信は既存のビジネスモデルの破壊に通じ、出口の見えない議論に迷い込んでしまうと同時に配信事業者は‘フリー‘なるわけのわからない呪文をふりまき、コンテンツをいかに安価に仕入れてばら撒くか、それをえさにいかに利用者を囲い込むか、を考えているばかりである。
さて、コンテンツホルダーにとって紙で提供していたコンテンツをネットで配信することから新たに生まれてくるのは安く、広く、コンテンツを流通させられることだけだろうか? たしかに送り手と受け手だけの関係をみているとそのとおりである。
しかし、これまでの流通過程とネットでの流通過程を比較してみると紙の流通過程では得ようもなかったことがネット流通では得られることに気がつく。
そのいくつかをあげてみよう。
まず、これまでは出版社の場合は取り次ぎから書店を経由して読者に、新聞社の場合は販売店を通じて購読者に、一方通行で本なり新聞を届けていた。
その過程では、出版社も新聞社も誰が読者なのか、誰が購読者なのか把握していなかったし、把握できてもせいぜい読者アンケートによる把握であったからそれは読者のごく一部でしかなかった。
ネットの性格からこれまでの流通のように一方通行ではなく双方向であるがゆえに一日24時間常に出版社、新聞社は読者とつながっている。つながっているのだから、出版社、新聞社は読者は誰か知ることの出来る仕組みになっている。これまでの流通過程を通じたビジネスでは読者は不特定多数であり、出版社も新聞社にも顧客情報はサンプル以外持ち得なかった。しかし、いまやネットでつながることによってこれまでは不特定多数であった顧客が特定多数に変わる。また、読者とはつながっているがゆえに新聞の配達、あるいは書籍の販売だけでなくいろんな角度から読者である顧客に接触することが可能になる。
つまり、コンテンツをネット配信することにより顧客を知ることが出来、つながることができ、また、その読者のプロファイルを知ることができる。
たしかにネット配信になると値段が下がることで売り上げは低下するであろう。既存の紙のビジネスを捨てるわけには行かないから読者が紙からネットに移行すると既存のビジネスの採算はきびしくなり、既存のビジネスの売り上げの減少ほどネットの新規配信の売り上げは大きくはならない。したがって事業の収益性は悪化する。
ただし、ネット配信で得られる個々の顧客のプロファイルを活用するビジネスを起こすことが出来たらこれまでに無いビジネスの機会が得られる。
ところが、これはあくまでコンテンツホルダーが直接配信を手がけた場合の話しである。
コンテンツホルダーが自分で配信を手がけずに配信事業者に預けて配信してもらうと配信先の顧客データは配信事業者は得ているが配信を委託しているコンテンツホルダーにはその顧客情報は入ってこない。せっかくネット配信で得られる新たなチャンスを本来ならばアクセスしてくれたコンテンツの顧客であるはずの読者が中間の配信事業者に取り込まれてしまうのである。このような状況になってしまうとコンテンツホルダーはネットの世界に新たに事業を展開出来るはずの機会を配信事業者にうばわれてしまうのである。
配信事業者はコンテンツホルダーが提供したコンテンツへアクセスしてくれた読者の情報をコンテンツホルダーに提供すれば問題はない。ところが個人情報の機密とかの理由をつけて開示を拒むのが普通である。これではせっかくのネット配信の一番おいしい成果を配信事業者に持っていかれてしまうのがコンテンツホルダーのせいぜいである。このような損失を回避するにはコンテンツホルダー自身が配信事業を行うことである。
つまり、コンテンツ配信のプラットフォームをコンテンツホルダーが主体となってつくることである。つまり、出版社にとっても、新聞社にとってもネット配信を適切に行えば自分のこれまで見えていなかった顧客をはっきり知ることができ、把握することができるようになる。
そのようにして得られる顧客情報と個々の顧客との直接のつながりがネット化によってコンテンツホルダーが得られる最大かつ新たな資産であり、その資産の活かし方次第で大きな事業発展のチャンスができる。
世の中にはコンテンツホルダーはコンテンツの制作に徹して、配信は配信事業者に任せておけばよい、という人も少なくない。たしかにネットで配信するという部分だけみれば、いかにも専門分化で効率的に見える。しかし、この議論ではネット配信によってあらたに得られる大きな可能性を持った資産のことはまったく忘れられている。
出版社、新聞社のみならず、コンテンツホルダーがコンテンツのネット配信化によって、事業を衰退させてしまうか、発展させるかはこの新たに手に入る資産の活用の如何にかかわっている。

京都錦小路

2010年6月28日

京都はなんとなく住みたくなるところである。その大きな理由のひとつが錦小路があること。
ここでは食材だけでなく既に料理された京料理のお惣菜が各種売っている。

写真は錦小路の中ほどにある川魚屋の「のと与」が店の二階でやっている料理屋のうなぎ定食である。
最初の写真はうなぎの肝を中心におしんこなど酒の肴。うなぎの肝の匂いに誘われ頼んだのがお盆の中ほど奥にあるすりガラスのコップに入った京の地酒一合。くせのないさわやかな酒である。
二枚目の写真はうなぎどんぶり。この店は選り抜きのうなぎを扱っていて、天然ものも置いてある。これは天然ものではないが、店の人いわく、‘ほとんど天然もの‘という品で身も程よくしまっていて、ぶよぶよしていない歯ごたえのあるうなぎである。
この店は錦小路にいくと必ず立ち寄る。わたしの大好物の八幡巻きがあるからである。
いつも、八幡巻きとうなぎの肝の串焼きを買って帰る。普段はうなぎの肝など食べない家内がこの店の肝の串焼きだけは好きなようである。
「のと与」は川魚をいろいろ扱っている。このときはめずらしく、なまずの蒲焼まで並んでいた。

ジェリー ブラックハイマー

2010年6月21日

最近、注目しているプロデューサーである。
映画、あるいはテレビ番組の制作で光り輝いている。
カリブの海賊は三作までリリースされている。近く、四作目がリリースされるといううわさがある。また、あのおどろおどろしい映像が見られるのか、とかなりの期待をしている。
この映画は監督がティムバートン、主演はジョニーデップはよく知られているところだが、この制作プロデューサーがジェリーブラックハイマーであることは監督とか主演男優ほどしられていないのではないだろうか。
このジェリーブラックハイマーはテレビ番組でもヒットを飛ばしている。CSIシリーズがそうであり、コールドケースも彼のプロデュースである。彼の作品のすべてに共通していることは、予定調和と勧善懲悪である。さらにCSIなどのテレビ番組では日常のなかの非日常を対象とし、そこにホットなSET,すなわち、サイエンス、エンジニアリング、テクノロジーをちりばめている。
いっぽう、カリブの海賊ではやはり予定調和と勧善懲悪が共通で、さらにロマンスとナンセンスで味付けしているのが特徴である。
このようにキーワードを並べてみるとまったくの娯楽作品であることが判るし、その結論はもうわかってしまっている。それでも面白くて見入ってしまうのは予定調和と勧善懲悪のおかげである。変に気取ったアートっぽくなく娯楽に徹していながら何か新しいセンスの作品をつくるプロデューサーがジェリー ブラックハイマーである。
それにくらべて、どこかの国の作品の多くは変に小理屈が多く、もったいぶっているか最初から終わりまでばかげているかのどちらかしかない。
見る人の多くは完全予定調和の勧善懲悪ストーリーが大好きなのではないだろうか。そういえば、こんなストーリー展開は日本の娯楽時代劇とそっくりではないか?
時代劇風現代ドラマを作るプロデューサーはどこかにいないのか、探してみよう。

電子教科書

2010年6月21日

先週の授業では、クリエイティビティを刺激しそうなツールとしてiPadを時流に乗ってとりあげ、さらにその電子教科書としての可能性を議論した。
そこで、iPadを使って電子教科書をつくるとしたら、というテーマで学生にクイズを出した。
小学校中学校高校のどの学年あたりから始めればよいか、どんな科目からはじめればよいか、といった質問である。
もし、電子教科書を検討するなら一番最初の議論になるところではないかとおもう。


Quiz 20100615 iPadを使って教科書を作る場合について

Quiz 1) 小、中、高のどこのどの学年から手をつけるか

 私だったら中学校一年生向きから手がけます。私は中学受験をし
 中高一貫の学校に通っていたのでその感覚で話しますが、まず、
 大学受験を控えた高校生にはiPadでなくやはり普通の教材や
 参考書を使った手書きによって体に身に付けさせることが一番でしょう。
 小学校もおなじく学習の基礎になる部分なので手書きによる学習が
 一番ではないかと思います。そのような意味から一番たるみ勝ちな
 中学時代、とくに一年生のときにiPadによるインタラクティブな
 教科書を使うのが今の時代、大体の中学一年生が携帯電話を持つ
 だろうということを考えても最適だと考えます。

 小学生あるいは中学一年生

 小学校中学年くらいから科学や技術に関することに電子教科書を使いたいです。自分は小学校のころから生粋の理系人間ですが科学や技術に興味を持ったひとつのきっかけはパソコンソフトの‘ものの仕組み図鑑‘でした。電気製品の仕組みを面白いアニメーションで教えてくれて
食い入るように読んだ記憶があります。日本人の理系離れをとめるには‘興味を持ってもらう‘こと、そして‘理系科目が面白い‘ことを苦手意識を持つ前の小さいころにやるべきで、そのために電子教科書は最適なメディアだと思う。

 中学一年生から、
 小学校は勉強らしい勉強をしないので中学一年なら新しい教科書に入り易いと思う。

 小学校高学年(5,6年生)あたりから。

 中学一年、二年あたりから。
 塾の講師をしていたころ大体その年代から得意、苦手が分かれ始めたとおもったので、、、

 小学校5年生から

 中学二年生から。

 中学二年生から。

 小、中、高、どの年代の学生にも使わせるべきだと思う。小学生の時には絵を描いたりパズルをしたり。高校生のときにはプログラミングをしたり、など授業外での知的活動ができるから。

Quiz 2) どの科目からはじめるか?

 わたしなら理科から始める。まず、数学は難しい気がする。社会等の記憶系や国語などは書籍を使う科目は簡単に作れるような気がしますが理科の実験をiPadを使ってやれば更に面白く、iPadを最大限利用できる授業が出来るのではないか、と考えた。

 理科など映像が見れて理解が深まる教科、あるいは英語で音が聞けるもの

 理数科目からはじめるべき 英語もインタアクティブな教材が使えるとよい。

 音楽
 楽譜や時には楽器としての機能を使う。

 社会や、中学、高校では歴史、地理の授業で使用するとよいと思う。
 いままでスクリーンで映像を見るなどしていたがiPadをつかえば
 個人がそれぞれ手元においてみることができる。
 小学生にとっては写真、動画が多く使われている教科書は判りやすい
 とおもう。また、文字よりも表やグラフなどから感覚的に学ぶことが
 できるようになる。

 数学
 文章や図であらわされてもいまいちピント来ないことがある科目だから。動きのある図、シークエンスになっている図などを挿入することで直感的な理解が得られることが出来る。
 理科
 たとえば物理的な内容であった場合電子教科書のなかでさまざまなパターンをシミュレーションできるようなものであれば理解しやすいと思う。また、iPadの触覚性を活かして普段の授業から体験型授業として扱えるような内容が考えられる。

 数学
 三角関数や積分の概念はアニメーションがあるとつかみやすい。美術では直感的なインターフェースで自由につくれる。社会では地図から国や地域をタップしてアニメーションやインタラクティブにデータなどを紹介、中学生までは手で書く、筆を動かすといった行為が大切だと思う。しかし、高校生になると‘筆‘に縛られては柔軟な発想がしにくくなりそう。よって、中学二 年生くらいでiPadのような触覚インターフェースを教えると自然にツールとして活用でき大人では思いつかない面白い使い方を提案してくれそう。

 数学、理科から始めて社会に拡大する。
 実際に塾で指導していて図が動けばいいのに、と思ったことがある。教科書からは離れるがノートやドリルなどもっとパーソナルなものを電子化することで正答率や理解度をデータベース化することができきめ細かな指導が可能になるのでは、、

 英語
 読み取り、書き取り、聞き取りができるiPadはもっとも英語の勉強に適していると思う。
 学校の教科書、特に国数英理社以外の教科となるとほとんど教科書を使わないこともある。毎年そのために何冊もの教科書がムダになっているのでiPadは金銭的にも環境的にも有効であるとおもう。

グローバルビレッジ

2010年6月15日

今回も、実は今講義をしているクラスの学生から集めたクイズの返答集
(解答ではない)である。
質問は‘グローバルビレッジという言葉からどんなイメージをもつか‘である。この言葉はマーシャルマクルーハンの言葉として知られているが、いまのインターネット上のSNSを予言しているようにも見えるし、もっとべつなものかもしれない。
今回もまたとても興味深いレスポンスを貰ったので紹介する。

Quize グローバルビレッジという言葉から持つイメージは?

 交通機関の発達によって遠くまではやく移動できるようになったように(遠かった場所が近くなった)通信速度が向上して世界中の人と簡単にコミュニケーションがとれるようになるというイメージではないかと感じた。ビレッジという言葉はちょうど隣の人と会話するように世界中のどの場所にいるひととでも会話できるということだとおもう。

 はじめはビレッジというくらいだから村と村をつなぐ架け橋的なものかと思った。
 話を聞いていて、また今の世の中を見ていて、いまやネットワークが世界的規模で広がってきて世界がひとつの村という感じがする。

 ‘世界がもし100人の村だったら‘という本がある。自分はグロー^バルビレッジという言葉をこれに似たものであるとおもった。
 つまり、世界を小さな村にまで縮小してかんがえる、というものである。
 パソコンが普及しネットワークが発達した結果世界はいままでよりとても小さくなったと思える。グローバルビレッジとは境をひとつの村として見立てて考える考え方である。

 地球をひとつの村であると考えること。
 広いようでいて実は狭く、みんながみんなつながっている印象がある。
 
 小さな村々がひとつひとつつながって世界をつくっているというイメージ。
 インターネットというイメージが強いがそれだけでなく様々な場面でグローバルビレッジは成り立っていると思う。
 たとえば大学だって様々な学部学科から成り立つ集団。この学科も様々な人から成り立ち、つながることによって何かを創りあげようとしている。
 主観的なイメージは、明るい、未来的、平和な思いやりのある、などプラスのイメージ。

 ビレッジという言葉から、村のような周囲から切り離されているひとつの集団というイメージを持つので、グローバルイメージと言う言葉からは境がひとつの村のように情報を共有しあうのでまったく知らない人でも同じ情報を持つことで仲間のように感じるイメージ。

 世界中の人と相互に容易に気軽にコミュニケーションが出来るイメージ。ビレッジ内のお互いがお互いを知っていて相手が自分の身近な存在でいつでも簡単にコミュニケーションがとれるというのが世界規模に広がった感じ。

 ある狭い範囲に存在している情報を隠すことなく世界に届ける、といういう感じ

 世界規模で従来の‘村‘のように人と人のつながりがより深くより近い関係

 世界中が凝縮されているような距離の概念があやふやなイメージを持つ。また、ご近所付き合いが盛んだった昔の日本のような温かいイメージも‘ビレッジ‘という言葉で浮かんでくる。
 世界中の人が身近に感じられる世界になれば戦争はなくなるのではないかと期待しますがその前に言語的障害がなくならなければならないとおもう。特に日本人は外国語に関して消極的な印象がある。

 ‘街‘をあらわす‘City‘などではない、あえて‘村‘を表す
 ‘Village‘という点でそこに存在するものが助け合い、互いにかかわりあいながら向上していくイメージ。世界中のものがむらのようにかかわれるというような、、、

 グローバルは文字通り世界規模、というイメージ。
 その構成要素は個人からー>ビレッジあとは村が起こるような少しずつどんどん発展していったイメージ。

 世界的小規模集団。
 たとえばインターネット上で趣味のサイトがあったとするとそのサイトには世界中の人がアクセスすることが出来る。しかし趣味のサイトに定期的にアクセスする人は限られているためそこにコミュニティが出来る。すると、そこには世界中から集まった小さな村が出来るといえると思う。SNSに関してもSNSが一番盛り上がるのは人数が少なくお互いにお互いのつながりが強い時期だと思う。そういった意味ではコンセプトを持たせたSNSというものがSNSが発展するのではないか。

政治なんてどうでもいいや。

2010年6月12日

つい3日前から読み始めた本の冒頭、‘はじめに‘の1ページ目にでてくる言葉である。
最近の政情について書かれた本ではない。不利本の現代語に翻訳しなおした新書である。
めちゃくちゃ面白い。出てくる言葉が‘眼からウロコ‘である。
署名をしょうかいしてもいのだが、この本は中に出てくる言葉をいくつか紹介するほうがおもしろそうだ。
‘政治なんてどうでもいいや。‘は非常に正しい。そんなものに正面からかかわっていてはいけない。
上から見下ろして馬鹿にしていればよい。
これが真だとすると昨今のテレビはどうでもいいことに公共の電波を浪費している。
もっとも、テレビそのものもどうでもよい代物なのであろう。

‘そんなことを考えてはいけない‘ということをしっかりかんがえること‘
これはぜひ子供の教育に当たっておしえておきたいことである。学校では、そんなこと考えなくてよい、という言葉が先生からしょっちゅう発せられるから、それは‘そのことは大事なことなんだ‘と理解するように教えておこう。

‘身の回りだけでなく遠くまで見通すことのできる眼をもつこと‘
これはわが身に照らしても真です。
私はこれを教わった大川功氏の表現をそのまま使わせてもらって、‘顕微鏡と望遠鏡を持て‘と表現している。

‘善‘とは権力の感情、権力への意思、権力自身。‘悪‘とは弱さからでるすべてのもの。
‘幸福‘とは力がみなぎっていくこと、勝ち抜くこと、頂点を極めること。
この考えによれば、幸福を得られる人はごくわずかで、弱い人は当然ながら幸福にはなれない。
小沢一郎は善、ということになると思うのは短絡的でしょうが、、、

‘進歩‘は近代に作られた間違った思い込みである。‘
確かに進歩とは何かを定義せずに進歩を求めていないでしょうか。長い間経済の進歩が進歩だと思ってきたふしがあります。しかし、進歩とは何か、と考えたことはほとんどありませんでした。

‘人間は自分苦いのあるものを好きになってしまうことがままある。‘
これは納得!

‘同情などしていると人間は力を失ってしまう‘
人間社会も人間が動物である限り自然淘汰の世界だ、といいたいのでしょうか。たしかにビジネスの世界はこの原則が働いているのに、そのビジネスを形成している人間にこの原則が働いているかどうか、ですね。

‘普遍的は‘真‘など存在しない‘
これはおもしろいですね。普遍的な価値観の存在を否定し、真とか価値はそれぞれ個人の意識煮存在すると言っているのでしょうか。
そうなると普遍的な真が存在する、と信じたいのは自分の意思の弱さからの逃避のためなのかもしれません。

お釈迦様は‘利己主義は人間の義務である‘と説く。
なるほど、利己主義の逆は客観性でしょうか。客観性ばかりをもとめるとみんな同じようなよりどころのない見方になり、人間が本来もっている個性が薄れてしまいますね。

‘神‘とは僧侶の道具である‘
こんな風なことも出てきました。そうであれば教典は神という道具を動かすためのマニュアルなのでしょうか?
まだまだ、面白い言葉が出てきますが今回はこのあたりで終わります。

郵政関連法案ーひねった見方

2010年6月11日

普段、できるだけ政治的な話題をブログに書くことは避けているがたまにはよいだろう。
物事を見るときに真正面から見るか、ちょっとひねってみるか、、いろんな見方がある。今回は昨晩からの焦点であった,国会の会期延長と郵政関連法案の審議のやり取りをひねってみてみよう。
昨晩からの議論は民主党が内閣の人気の高い間に選挙を行うべく国会の会期延長をせずに7月11日に予定通り選挙を実施したい、という主張である。これに関してはマスコミの論調は民主の選挙政策として捉えていてそれがゆえに郵政関連法案は今国会での成立が危ぶまれる、という報道である。
結果的には民主が押し切り、国民新党、具体的には亀井代表と対立図式のまま決裂し、亀井代表は辞任、しかし、与党連合からは離れず、という決着。しかし、閣僚ポジションは自見幹事長を押し込んでしっかり確保、という決着である。うっかり見ていると、枝野幹事長は豪腕だな、亀井代表はきっぱり筋を通すところを見直したな、と見えるかもしれない。これは当然のシナリオ、という見方が出来る。
郵政関連法案と選挙とを考えると、郵政関連従業員は30万人、家族あるいは取引先など含めると100万票の票田である。結論から言うと、今国会で郵政関連法案が成立すると、この100万の人たちにとってはもう安心だから、国民新党に参議院選挙で投票する必然性はない。ドライに見れば郵政関連族からみたらとりあえず国民新党はごうろうさま、である。
ところが今国会で成立しない、となれば次の国会での成立を何とかしなければならない。そのためには国民新党にがんばってもらわなければならない。国民新党も単に民主党と決裂したのでは来期の法案成立の足がかりがなくなり、そうなったら郵政関連票からあきらめられてしまう。したがって、足がかりは残しておかなければならない。そのために閣僚ポジションは確保しておく。その結果、参議院選挙では郵政関連票は確保でき、あわよくば参議院での議席も増やせる可能性がでてきている。
つまり、会期が延長され今国会で郵政関連法案が成立するのは国民新党は都合が悪く、一方民主党としては新内閣の人気のあるうちに選挙をしたい、という思惑、この両者の思惑がぴったり一致した茶番劇、と昨晩からの展開を見るのはひねりすぎだろうか?
もし、これが茶番劇だとしたら、それを大真面目で報道しているマスコミっなんなのだろう?