千年に一度のことなのに、、、

2011年5月24日

震災以来、その社会的対応を見ていてどうもすっきり収まらない
ことがいくつかあった。
なぜ、納得できないのか、すっきり理解できないのか、常に考えて
いたわけではないが数日前にちょっとひらめいた。
今回の震災は千年に一度起きるか起きないかといったことである。
まず、それを平常時の社会の運営を前提としてつくられた現行の
法律で処理できる、とおもっているのだろうか?
いろんなところで、法的には、、、という出来ないことに対しての理由
が出てくる。そもそもこのような状況下で現行の法律を前提に
法的には、、、という話が通用すると思っているところがおかしい。
立法府がある。法律をつくるところである。官僚がいる。法律案を
作成するのが大きな仕事である。
いまこそ法案つくりの日ごろの腕を発揮してほしい。
復興国債の話もしかり、である。
子供の代まで負担を残したくない、など経常収支を補うための国債
発行と同じ次元でしか見ていない発言がある。
千年に一度のことの対応が数年でできると考えている。
千年に一度のことで必要になる国債なら千年国債とは言わずとも
百年国債が発行されてもよいのではないか。
多額の国債発行はインフレを招かないか、という懸念も中央銀行の
偉い人は思っているらしい。
しかし、現実をみると何十兆円かの試算が失われたわけである。
バランスシートががっくり傾いている状態だろう。
そのバランスを戻すために資金注入をすることがインフレを招くの
だろうか?
ここでも非常時発想がなされていない。
結局、なんとなく変だ、と思っている根本は非常時なのに平常時
の発想で考え行動していることではないだろうか。
もちろん、ごく一部の人たちだろうがそれがイニシアティブを持って
いる人たちがそうなのだから始末が悪い。よく言われる危機感が
足りない、というのはそういうことなのだろう。

表現工学科 講義資料5月17日、5月24日

2011年5月23日

今年の表現工学科の講義は5月10日からスタート。
あいにく、スタート直後の17日はやんごとなき用で休講。
その17日の資料と24日の資料を添付する。
出来れば、24日にできるだけ17日の分に加えて24日の分
もカバーする予定20110517.pptをダウンロード

ブルータス 本屋特集

2011年5月23日

先週、久しぶりにクラシックのコンサートに出かけた。バイオリンのリサイタルである。
アーティストは瀬川祥子さん。祖母が音楽大学のピアノの教授、母親は三姉妹の真ん中でビオラ奏者、ほか二人はピアノ奏者とバイオリン奏者という音楽一家。
祖母から見ると三代目というわけである。
音楽はDNAの影響が強いといわれている。代が進むにつてDNAが濃縮されるのだろう。
半年ほど前、はじめて演奏を聴いた。
そのときの印象は鋭く繊細な演奏、という感じだった。楽器の性格かと思いながら聴いていた。今回が二回目。
場所も時間帯も同じ、演奏家も伴奏も前回と同じ、さらに自分が聴いた席もおなじ。
わざわざ同じ席にしたのは最前列がちょうど空いていて、前回座った真ん中が空いていたので同じ席なら同じように聴けるだろう、との考えだった。
聴き始めると、あれっと思った。結構、聴いた演奏は覚えているほうなので今回も前回の演奏のイメージをもって聴きにいったのだが、耳に入ってくる演奏は自分が持っている記憶の演奏に合致しなし。
曲目はもちろん異なるが、演奏スタイル、音色など曲目が異なっても共通なものはいくつもある。
鋭く、繊細なイメージをもった耳に入ってきたのはふくよかで張りのある音である。前回は楽器のほうが演奏よりも特徴的であったが今回は演奏にしたがって楽器が鳴っているという感じである。ひょっとして席が違っても会場がちがっても前回との演奏の違いは気がついたかもしれないが、これほどはっきりは判らなかっただろう。明らかに演奏は進歩していた。
次のリサイタルではどんな変化を聴かせてくれるか、楽しみである。

つぎは男装家?

2011年5月18日

昨日、出張先から東京に戻るとき、空港に早めに着いたので一緒に出かけたなかまと空港のラウンジで時間つぶしにおしゃべりをしていた。
だいたい、このように予定もしていなかった空白の時間のときの時間つぶしの話題はくだらないものである。
最初のほんの少しの間はメルトダウンが話題になったもののすぐに別の話題にスイッチ。
どんなながれでそうなったのかは定かではないが、ゲイバーには行く気がしない、と一人が言ったことから女装家の話題に展開。そこから発展したのはそういえば男装家というのはどうなっているのだろう?いないな。というところでボーディングの呼び出しのアナウンス。ラウンジトークはここで終了。
帰りのフライトの中で考えていたら宝塚のことをすっかりわすれていた。まさに男装の殿堂である。でも、どこかいまはやりの女装家のテイストとはことなる。
それではどんなタイプの男装家が現れればおもしろいか?タイプとしては脂ぎった中年男のタイプと、めちゃくちゃな主張をするが、しかしもっともらしいタイプがまず思い浮かんだ。
なかなか、日本人では思い浮かばないが、たとえばイタリアの首相のベルルスコーニ、撃ち殺されてしまったオサマビンラディンなど、どうだろう?
密室でのイラ菅などもおもしろいかもしれない。女装家と男装家を一堂にあつめ異姓バラエティショーを企画すれば視聴率ナンバーワンは間違いなし。
いまは女装家だけだから面白さにも限界がある。女装家と普通のキャストの対決なら女装家が勝つのに決まっている。

不道徳教育講座

2011年5月16日

不道徳教育講座、本のタイトルである。
このタイトルを見て、三島由紀夫の著作だとわかる人は60代か
三島由紀夫ファンだろう。
発行されたのは昭和34年3月、西暦では1959年のことである。
日本が大きく成長路線に入ったのは1964年であったからそれよりも
5年も前のことであり、自分もまだ高校生になりたてのころである。
最近、週末に歩きながら近隣の古本屋を見てまわっていると毎回
面白い本を見つける。本当は自分が見つけているのではなくて
本のほうが自分を見つけている、と言いたくなるくらいである。
この、不道徳教育講座も昨日みつけた。一昨日、池波正太郎のエッセイ
を見つけた同じ店である。一昨日は気がつかなかったのだが、昨日は
店に入ったとたん、目にタイトルが飛び込んできた。
昨日、一昨日に買ったこの二冊はいずれも初版本である。それが
どれほどの価値のものかはわからぬが、、、
ここに書こうと思ったのはその中で書かれていることのタイトルは
50年たった今でも新鮮にかんじたからである。
というわけで、最初のほうのタイトルをいくつか紹介する。
ひょっとしたら文庫本で今も売っているかもしれないから興味のある
方は詳しくはそちらをみていただきたい。
タイトル
ー知らない男とでも酒場に行くべし
ー教師を内心バカにすべし
ー処女・非処女を問題にすべからず
ースキャンダルを利用すべし
ー友人を裏切るべし
ー弱いものをいじめるべし
ーできるだけうぬぼれよ
ー流行に従うべし
ー約束を守る無かれ
ー女には暴力を用いるべし
ー痴漢を歓迎すべし
-からお世辞を並べるべし
きりが無いからこの辺で終わる。

昨日の収穫ー古本とバー

2011年5月15日

昨日も夕方、いつものごとく近くの古本屋を二軒のぞきにゆく。
一軒目は収穫なし。
二軒目は川沿いの古本屋。
先週入ったときにはその書棚の場所には無かったはずの本が目に飛んできた。池波正太郎のエッセイの一冊で絵のたくさん入った本。探していた一冊である。本の中の紙も焼けてはいなく
とてもきれい。もちろん初版である。古本と言いつつ新本のときの値段とおなじ。
すぐに買う。
このところ、古本屋には以前から探していた本が見つかる機会が多い。そんなことを話してなぜだろう?と本屋さんに尋ねたら理由が判った。
震災以来、本が書棚にたまりすぎて倒れてきたとかで身の危険を感じた人たちが整理して売っているからだそうである。今、古本屋は宝の山!?
うれしくなって、ちょっと遠回りをして家に向かったら`ギネスのドラフトあります‘と黒板にチョークで書かれた看板を発見。まだ十分明るいにもかかわらず看板に惹かれてそのバーに入る。
ギネスのドラフトを注文。イギリスのバーのようにワンパイントのグラスででてくる。
奥行きの深い長いカウンターがありカウンターの背後にはボトルがたくさん並んでいる。そのほとんどがウイスキーというかなりハードなまさに英国風のバーである。
目の前に並んだサーバーを見ていたら一つ見慣れないサーバーがある。銘柄を聞いたらビールではなくシードル。それもイギリスから輸入している、これまたドラフトのシードルだそうである。
我慢できず、でもワンパイントは飲めないので半分だけもらう。しっかりした濃さで甘さも控えめな夏にはぴったりの飲み物。
バーテンさんもしっかりロンドンで修行してきた人。店の名前はTriple Crown,場所は中目黒から大橋に向かって野沢のほうに行く道との交差点を野沢方向に入って一本目を左に曲がった左側。

権利とそれにともなうもの

2011年5月14日

世の中、せちがらくなってくると権利主張が増えてくる。
既得権にしがみつく見苦しさも見えてくる。
権利はおうおうにして声だかに主張することによって確保
できたり、主張される側は変に説得されてしまうことが
よく見られる。
これは、とくに、日本国内においてである。
その根本はどこにあるのだろう、と昨今気になっている。
大局的な話をすれば、電力会社の地域独占体制である、
これは明らかに電力会社の独占権である。多分、電力会社
はいろんな理由を挙げてこの既得権を主張するだろう。
その主張に対する議論において、主張している側の論点が
果たして権利と対応したものかどうかは考えずその主張の
妥当性だけで判断してしまう恐れがある。
なず、権利が与えられている、ということには必ずそれに伴った
義務が存在する。
義務の遂行を条件に権利が与えられているのである。
ところが、時間がたつと往々にして権利保持者はその義務を
忘れて(あるいは忘れたふりをして)権利のみを、そのときの
都合の良い理由をならべたてて主張する。また、判断する
方にも、権利とは何か、と言うことがわかっていない場合が
多いので権利主張側が並び立てた理由だけで判断しがち
である。
権利には必ずそれにともなう義務がある。
義務が遂行されない限り、権利は存在しない。
また、義務とは求められていることだとしたら、それを最適
仲たちで実現するのはかならずしも特定のところに独占的
に権利をあたえることではないことがある。つまり、権利と
義務の最適なあり方、あるべき形は時間と状況の変化に
応じて変化することを知る必要がある。
つまり、今の権利が決められたときの時代背景と現在の
時代背景が変わっていたなら当然権利と義務の関係も
変わるべきか見直されるべきなのである。
このように見ると社会的体制においては数十年の期間を
へて変化の必要のあるものが残っている。
事業の経営においては環境変化が社会の体制の変化
よりももっとスピードが速いので2,3年の単位で権利と
義務の関係が変わるべき状況になることが多い。
今のスピードの時代に毎年でも、事業の中における
組織が持つ権利と義務を見直さないとあっというまに
事業体制は陳腐化し事業スピードの低下と不振を招く。
この時期、どこの企業でも組織変更があったり経営者の
交替がある。組織変更はおおむね人事異動のみが注目を
浴びるが本当に必要なのはその機会に組織のそれぞれの
必要性とそこに付与されている権利と義務の関係の確認
と、sの認識の徹底である。

想定内か想定外か

2011年5月13日

昨晩、ある会合にでかけた。
一年に一回ある顔合わせでその都度若干のメンバー変更がある。
例によって自己紹介があり司会者からの指示で最近かんじたことなど、
と言うリクエストがあったので、ほとんどの人が震災と原発事故の
話をしていた。話は状況についての印象で、その状況を知ってなにを
考えたのか、その肝心なところがほとんどの人の話では聞けなかった。
悪い言い方をすればメディア報道の受け売りの範囲である。
あまり原発事故のことは書きたくないのだが事故そのものよりもそこから考えることがあったので書くことにした。
いまさら何がおきようとそう驚く話ではなくなっていると思う。
昨日も一号機のメルとダウンの報道があったが、この記者会見の一部が報道されていたのでその範囲で考えたことだが、果たしてこの状況は想定内のことだったのだろうか?あるいは想定外のことだったのだろうか?もし、想定内の状況なら第二、第三の対策が用意されていて、すぐにそれに着手できるはずである。ただ、報道では次の手についての話は無かった。
もし、想定外だとしたら、この程度のことで想定外であるのなら、彼らの言う想定外は当てにならない、たんなる思慮不足ということになる。
すぐに第二、第三の対応の話が無かったということからみると想定外だったのかもしれない。普通に考えれば想定内のことだと思うが、、、
すくなくとも自分にとってはいまさらおどろくべき状況ではなく、もし驚くべきことがあるとしたら、これが当事者にとって想定外であった場合である。

新学期

2011年5月12日

今年は災害の影響で新学期の開始時期が一ヶ月遅れて
今週から講義が始まった。
新学期の楽しみは新しい学生の顔を見ることである。
どういうわけか毎年タイプが変わる。
おととしは男女比率が55:45.
結構元気の良い学生たち。
去年は男女比率が60:40.
比較的おとなしい学生だった印象がある。
これまで一時限、つまり9時から講義をしたのだが、去年の講座の
終わりにアンケートをとったときに2次限目以降にして欲しいという
要望が何件かあったので今年からは10時40分からの二時限目で
講義をしている。
今年の学生数は22,3名で学科の学生のほぼ半分である。
今年の連中は明るく軽やか、と言う印象だが、初日の印象だが
替わるかもしれない。
目に付いたのはメッセンジャーバッグ。男子学生の半分はあのテント
の古生地で作ったようなバッグを斜めがけにしている。
大学生にもなって、そんなに流行りモノに飛びついてよいのか?と
いう気がしたが服装もそれほど画一的である。
それもこの大学の校風なのか、ちょっと世の中よりも遅れているところ
まで揃っている。