ユーモア、笑い、お笑い、そしていじめ

2012年10月24日

いじめについては大津の事件よりもずっと前、体育館のマットを巻いたところに放り込まれた事件あたりから、つねに頭のどこかに引っかかっている。
しかし、なかなか、ブログなどに書くだけの明確な意識のまとまりができていなかった。
最近、歌詞に興味が有り、阿久悠氏が平成19年に亡くなった直後に出版された「清らかな厭世、言葉を失くした日本人へ」という本を読んでいたところひょっとしてこれはいじめの原因となんらか関係があるのではないか、とおもう一文を見つけた。
それを以下で全文、引用させていただく。
ユーモアと笑いとお笑いは薬とナイフとトンカチほど違っているものなのだ。ユーモアという言葉が、いつのまにか死語になってしまっている。日常のなかでまず聞かない。従って現在の社会の中に、ユーモリストと呼ばれる粋な御仁も、存在しなくなった。いても隠れる。
近頃の紙ヤスリでこすり合うような人間関係も、ユーモア不在が大きな原因になっていると思えてならない。ユーモアがないと、傷つけることでしか相手を確認できなくなるからである。どうであろう。
毎日の事件のニュースをききながら、そのような感想を抱くことはないだろうか。フッと笑えばいいのに。
僕は学校教育のなかにユーモアを取り入れたいくらいの気持ちを持っている。人と人はザラザラこすりあうのではなく、いい心持ちの潤滑剤の役目を果たす言葉を持たなければならない。それがユーモアである。
奇妙なことに、ユーモアは探しても探しても見つからない時代なのに、「笑い」は世に満ちている。テレビの番組を見ていると、笑わせるためのプログラムが、幕の内弁当のようにギッシリと詰まっている。ただし、この「笑い」、「お笑い」であることに気がつかなければならない。「お笑い」と「ユーモア」は対極にあるものなのである。
ユーモアはソロリと風のように吹く。鼻先を気持ちよくくすぐられ、おもわずフッと口許を綻ばせ、目尻を下げてしまう。つまり、力が抜けて、野暮に力み返っていたことが、馬鹿らしくなる一瞬である。
それに比べて、お笑いはいくらか暴力的でなければならない。ドシャ、グシャ、ゴキーンという擬音が必要になり、その被害者が必要になる。
お笑いとは、他人事にしているから笑えるが、実は悲劇なのである。
かってのスラップスティック(ドタバタ)は、主人公が律儀で誠実で懸命であるために悲劇的 状態になることを、ある種の同情を含めて笑っていた。なぜ笑えるかというと、主人公には悲劇から逃げる選択肢があったからである。
ところが 現在テレビなどで全盛の「お笑い」はこれとは違っている。主人公はけっして傷つかないし、危機にさえないのである。主人公は被害者を指名してみんなで取り囲んで、まあ、逃げられない悲劇にしておいて、選択肢のない残酷を笑うのである。
これでは、人々は笑えば笑うほど紙ヤスリになる。ヤスリは傷つかない。傷つくのは肌であり、心である。
ユーモアが欲しい。ユーモアの笑いは余裕である。過剰な競争心と、それによる被害妄想をやさしくほぐす。
ぼくらは、何もない貧しい時代に、少年雑誌の中のユーモア小説を体験して、緊張を解いて、相手を許すことを修得した。だから、学校教育の必須にしたいと思っている。

転ばぬ先の杖

2012年10月22日

先週の初めに右足のかかとのテーピングが外れたので、歩き始めたが、まだまだ普通のスピードでは歩けず、それも長いあいだはむつかしいので、先週はもっぱらタクシーでの移動だった。
出来るだけ外出しないようにはしていたのだが、週の後半は毎日何箇所か回っていた。
ほんの3週間程度の歩行制限だったが足の運びがうまく戻らず、ちょっとしたものに足をひっかけてしまう。つまづきである。
、2、3度は転びそうになった。こんな状態で転んだりして骨折してはかかとどころの騒ぎではなくなる。
自分の足の具合が悪くなると、歩くのが必ずしもスムーズでない人の様子を見てしまう。これまで気がつかなかったことが見つかる。意外だったが、杖を使っている人をけっこう見かける。それも、自分と同じくらいの年齢の人でも見かける。
そうだ、つまづいて転んだりするのは嫌だから、杖というか、ステッキでも、足の裁きがもっとスムーズになるまで使ってみようか、と思っている。
体力的にはそんなに衰えていないので、がっしりしたステッキはどうだろう?
ひょっとしたら運動にもなるのではないか、と思ったりしている。

かかとの話

2012年10月18日

かかとはからだの部分のなかで好きな部分である。
何も自分の足のかかとに限ったことではなく、一般にかかとのかたちが好きである。
そんな私の右足のかかとに異変が起きたかかとは機能的な美しさをもっている。
誰のかかとにもぜい肉がない。
たとえ、90センチを超える腹囲のメタボのオヤジでもかかとだけはきりりと筋肉質の、丸みを帯びた、機能的なかたちをしている。
そんなかかとだが、実はこれは我々が二足歩行の哺乳類である証拠のひとつでもある。
嘘だと思うなら、もし、そばに猫でも犬でもいたら彼らの足を見てみると良い。
彼らの足にはかかとは無い。ひょっとしたらチンパンジーにはかかとがあるかもしれない。
犬も猫も、その他の四足で歩く動物にはかかとがないのでかかとを着いて歩くことはない。
面白いことに、歩き始めた子供を観察してみると、かれらは足の前半を着いて歩いたり走ったりしている。そもそも、生まれて、立ち上がった初期にはかかとを着いて歩くということは無いのである。
かかとは、従って、なんとなく生物的には人間が人間的に動き出したことから機能しはじめたのかもしれない。
そういえば、日本のわらじにも草履にも下駄にも、かかとという概念はない。
ひょっとしたら日本人がかかとを歩くときに重用しだしたのは西洋からかかとのついたくつがはいってきてからかもしれない。そんなわたしの右足のかかとに異変が起きた。
痛いな、と思いながら我慢して歩いていたら、ある日、歩けなくなるほどの痛みに襲われた。それでも2、3日、だましだまし歩いていたのだが我慢できなくなり生まれて初めて、整形外科に行って見てもらった。
レントゲン撮影をされ、その写真を見せられて、ふたつのことに驚いた。
かかとの骨が変形して小さな角のようなものが生えているのである。その近くにちいさな裂傷がある。角が生えているだけのあいだは我慢できていたのだが、この裂傷ができて、急に痛みがひどくなったらしい。
{先生、これは高齢化現象のひとつですか}、最近、医者にいくと、高齢化現象の一言で説明され納得させられたことが多いので、今日はこちらから聞いてみた。
{いや、歩きすぎですよ。ずいぶん前から傷んでいたでしょう。歩きすぎ、歩きすぎ}
{歩くのは減らして運動したいのなら水泳をしなさい。水中歩行でもいいです}
という御神託を得て、頑丈にテーピングされ、‘早く治したかったら歩かないことが一番ですよ‘といわれた。それから2週間、どうしても出かける必要のあるときは家のそばからタクシーで出かけ、タクシーでもどることで不便をしのいだ結果、ようやくテーピングが外され、少々不自由ながらも、歩き始めている。
もうひとつの驚きはレントゲン写真に撮されたかかとの部分の骨の構成が思ったよりもずっと複雑だったことである。
こんなに複雑な構造なら、やはりそれなりの年になったらその構造を意識して使わなければ、と認識して、いまや、歩くのに適した弾力性のある底の靴に、さらにシリコンのかかと、女性の胸に入っているものと同類らしい、クッションを入れている。
このシリコンのかかとクッション、なかなか快適である。
何度か通販カタログで見ていたのだが買う決心には至らなかったが、今回購入して使ってみたらその快適さに感激である。
ちなみに、このクッションを入れていないスニーカーで歩くと、今日現在はまだ足が痛む。

リトルイタリー

2012年10月 1日

昨今の南シナ海、あるいは尖閣列島に絡んだ中国の動きをみていてNYのマンハッタンにあるリトルイタリーのことを思い出した。
NYのマンハッタンの南、キャナルストリートの北側一帯には1980年代まではリトルイタリーと呼ばれるイタリア人の街があった。
今でも地域の名前としてはリトルイタリーである。イタリアンマフィアの街だ、などと様子の分からない我々は噂をしていた地域である。
このリトルイタリーにはkタリア各地のいろんな美味しい料理の食べられるレストランがたくさん軒をならべていた。とくに、南イタリアの料理が好きで、NYに住んでいたときは何度も足を運んだ場所である。
このリトルイタリーのなかに2、30台は止められる駐車場がり、この駐車場はチャイナタウンにも近かったので、この地域に来るときにはいつもこの駐車場にクルマを預けていた。パーキングボーイはひょっとしたらマフィアのパシリではないか、とおもうほど強面のイケメンの兄ちゃんたちだったが安心して預けられるので愛用していた。
キャナルストリートを挟んで南側はチャイナタウンである。当時ははっきり、キャナルストリートを挟んで南と北で別れていたが、80年代から90年代にはいると少しずつチャイナタウンがキャナルストリートを超えて北側のリトルイタリーあたりに進出拡大しはじめてきた。
それから20年強、今ではリトルイタリーには未だ,何軒かイタリア料理の店はあるものの、もう、すっかりチャイナタウンである。ごひいきの駐車場はとっくに中華食品のマーケットになってしまって、イタリアンはどんどん北の方に追いやられいまやSOHOとの境目のあたりに張り付いたような感じで息をひそめている。
マフィアの街でも浸食してしまう,チャイナタウンのバイタリティである。これが南シナ海をはじめとする周辺地域の将来の姿では無いことを願いながら、チャイナタウンに浸食されたリトルイタリーの片隅のカフェのテラスで高齢のイタリア人の親父達がひそひそと肩を寄せて話をしている姿を思い出した。