フリンジ

2010年12月29日

最近知り合いからアメリカのテレビテレビドラマで
面白いのがあると教えてもらった。
フリンジ。
さっそく、大嫌いなTSUTAYAに行き会員登録をして
フリンジのDVDを借り出す。一枚が約400円。
決して安くない。牛丼が280円のじだいだから。
これって音楽のCDみたいに誰かが借り出してパソコンで
コピーして回しているんだろうか?
そうだとすれば4人に回せば一人100円だから高くないか。
住んでいる地域にはブックオフあり、TSUTAYAありで
著作権無法地帯。おまけに牛丼やが3軒、どこも280円
さらには定食屋では朝定食が290円、マッサージが
一時間で2950円。
とうとうハンバーグ定食が400円。
全く住みやすくなったものである。
そんな環境でのTSUTAYAのDVDである。
フリンジは実におもしろい。
理由は自分があこがれる老人がまた一人見つかったからである。
それは、主人公のイケメンのピータービショップでは無く
その父親で変人科学者のウオルタービショップである。
とにかく某有名大学に自分の悪魔的研究室を持っている。
しかも助手はFBIの職員でハル ベリー風な生きの良い女性である。
このビデオを2010年末に知ったのは大きい。
来年の目標の一つが出来た。
来年はどこかの大学に怪しげな研究室を持ち、ハル ベリー風の
留学生を見つけて研究助手にしよう。
なにを研究するかはどうでもいい。まずは環境整備である。

住宅街のとんでもない酒屋

2010年12月28日

つい最近、偶然だがとんでもない酒屋を見つけた。都心に近い私鉄の駅の近くの住宅地のなかにある。
この酒屋の前を偶然通りがかったらあまり知らない銘柄の一升瓶が並んでいるガラスのウインドーに張り紙が張ってあり、そこに書いてあるのはダチョウのひれ肉あります‘とか‘馬刺しあります‘とか、酒屋としてはちょっとおかしい張り紙である。
その張り紙のそばで見えた一升瓶のラベルには‘武士の門‘。めったに見ない焼酎の銘柄である。大好きな焼酎のひとつだ。
写真の一枚はその‘武士の門‘のなかでもたまにしかでてこない古酒である。
もう一枚の写真の焼酎は、これまた名前だけしか聞いたことがなかった宮崎の小玉酒造の焼酎である。
ブランドの名は杜氏の名前をつけた‘杜氏淳平‘である。さっそく杜氏淳平を飲んでみた。軽やかでちょっと辛口だがしっかり芋の味がする。期待通りの味である。
こんな酒が見つかるなんてこの年末はついている。

クリスマスの夜の妄想 Twin Code

2010年12月25日

最近、単行本の新本というか、新本流れが安く買える。もちろん、例の店で、である。
ごく最近見つけたのは角川書店出版の‘王子と乞食‘。マーク。トウェインの初版本の挿絵をいれた慎訳本である。
物語は16世紀の半ばのロンドン、下町の貧乏人に一人の男の子が誕生、ちょうど同じ時に貴族の家には王子が誕生。
何年かたった後、二人が顔をあわせてみると王子と乞食の身分の違いはあれ二人はそっくり瓜二つ、そこで 王子と乞食はその身分を入れかわったが、、、という名作である。
これをキリストの誕生の夜も読んでいて突然頭の中に浮かんだ妄想がある。もし、キリストにそっくりのもう一人が存在していたらどうなるだろう?この王子と乞食のように、、、
妄想はこんな風に広がる。
ベツレヘムの馬小屋でキリストが生まれたとき、東方の三博士は流れ星をみてそれをたどって馬小屋を見つけ、キリストの生誕を祝ったのだが、実はそのときの流れ星はひとつではなくてふたつだった。
三博士の一人は流れ星が二つであった事が気になっていたのだがとりあえず三人はひとつの方向に進み馬小屋を見つけイエスの生誕を祝ったのであるが、、、
先ほどの博士の一人は相変わらずもうひとつの流れ星の事が気になってあたまから離れなかった。
誕生から何年も経過し、イエスが布教活動をはじめたころ、偶然にもこの博士はある村で自分達が生誕をいわったイエスとそっくり瓜二つの男がいることを発見。
その発見はイエス本人には知らされず、博士は弟子の一人にこのことを話す。
それから時がたち、イエスは弟子とともに布教活動を拡大するのであるがその活動の中ではイエスが遠く離れた場所であるにもかかわらずほぼ同時に現れたり、活動したり、、超現実的な活動が見られ始め、その超現実的現象が評判になる。
それらの活動の結果、ある日罪をとわれ、処刑される。
公衆の前で処刑され死に絶えたはずのイエスは何日か後に人前に登場する。
これが有名な復活である。
処刑され、死んだ人が復活した事でイエスはここに神格化される。
ところが、処刑されたイエスが死んだ事は事実として、この復活したイエスは弟子の一人が長年影としてかくしていたイエスをあたかも復活したごとく登場させてイエスの神格化を演出した、という事は考えられないだろうか?
こんな事を妄想しながら今晩も‘王子と乞食‘を読んでいる。
私ごときが思い浮かぶ事がイエスに関しての議論としてこれまで世の中にでてきていないということはますますこの妄想の真実味を高めてはいないだろうか?
もし、イエスそっくりのもう一人が存在し、処刑後に復活を演じたのであればだれか演出家が必要である。多分弟子の一人だろう。それではその弟子は誰なのか?さらに復活した演技をしたもう一人の男はその後どうなったのかなどなど、気になる事はいろいろありそうである。

私の選ぶ2010年最大の出来事ー尖閣列島中国漁船

2010年12月22日

将来、2010年を振り返ると大きな転換点であった、ということになるかもしれない。
それほどいろんなことが起きていた。寅年はいろんなことが起こるというが、それに
しても、である。
司法が信用できる、というのは民主主義の根幹であるが、司法が信頼できないことがはっきりしたのも今年である。ある意味で民主主義を形成する一角が崩れた年である。
それらの中で自分がただひとつ選ぶとしたら尖閣列島の中国漁船の事件である。
領海侵犯とか衝突とかの起きたことも重要であるがさらに重要だとするのはマスメディアがもはや意味が無いことを露呈しいまやメディアパワーはマスでは無くミニに、個人にに移りつつあることを象徴する出来事であるからである。
メディアは何を我々に伝えるべきなのか?それは我々が知りたいこと、知るべきことを伝えるのがメディアの使命であろう。尖閣列島の事件に関しては中国漁船が海上保安庁の監視船にぶつかってきたことを報道すべきであっただろう。少なくとも何十年か前のマスコミならそれくらいのことはやっていたはずである。
30箇所にもビデオが保安庁の中でばら撒かれていたのだから本気で追いかけていたらスクープできたはずである。
何十年か前、毎日新聞の西山という記者は外務省の職員の女性と個人的なつながりを作りまでして国民にとっての大きな関心事であった外交機密をスクープした。
時の政府はこれを違法な機密入手として有罪にし、しかもスクープされた内容については政府を挙げて否定し続けた。それが最近の情報解禁で、実は西山記者の報道が正しかったことが判明した。
国民に知らすべきという判断のもとに取材し報道するのがメディアの使命であるのにそれをいまのマスメディアはしなかったのか、出来なかったのか、とにかくメディアとしての使命を果たさず、個人からネットへという経路で国民が知ることに至った。
これだけでメディアは無力になったとは言わないが、およそ本当に重要なことを報道出来る能力は著しくなくなり、ネットを見なければ我々の求める情報は得られないことを露呈したケースであった。
それと時を同じくしてウイッキリークスが脚光を浴びている。
今年はメディアパワーシフトの明確になった年である。
個人がマスに変わってメディアパワーを手に入れたことがはっきりした年である。
にもかかわらず尖閣列島の情報流出の件についてもウイッキリークスについてもマスメディアの議論を見ているとまるでお門違いでこっけいなくらいである。
見ようによっては問題の本質をはぐらかすために行っているようにすら見える。
そのうち、マスメディアは気がついたら個人の発信する情報を集約選択して報道し、それらについて判りやすく解説を加えるという新しい立場を見つけるだろう。
それがひょっとしたらマスメディアが生き残れる道かもしれない。

女はそれを我慢できない

2010年12月20日

このタイトル、もし‘男はそれを我慢できない‘だったらほとんど関心を持ってもらえないだろう。理由は簡単である。
男は我慢できないものがたくさんあるのでそんなに話題にしても面白くない。
たとえば、ギャンブル。
ギャンブル好きはとにかく止まらない。何があってもギャンブル優先である。競馬がそう、パチンコもそう、マージャンも、、酒も止まらない。タバコも我慢できない。
とにかく、男には我慢できないことがうんざりするほどある。
ところが女にはそれほど我慢できないことが多くない。結構その範囲は限られている。
だから、‘女はそれを我慢できない‘なんて表題をつけると、あれ?!と思って目に留まる。そこで本題である。l
このところ電車に乗るのがとても楽しい。満員電車は嫌だがほとんど人が乗っていないのも面白くない。ほどほどに混んでいるのがよい。そこでまず席にすわると周りを見回す。何をしているか数えてみる。本を読んでいる人、その男、女。
携帯をいじっている人、その男、その女、居眠りをしている人、鏡を広げて化粧しているひと。
そうそう、先週みた化粧している女性は15センチ角ほどもある手鏡を出して眉を書き、口紅を縫っていた。最近発売になったドコモのタブレット端末くらいの大きさがある。とうとうここまで発展したか。
そんな観察の中で気がついたことがある。最近の女性の我慢できないことである。
それは容易に想像つくだろうが携帯のメールチェックである。車内でメールチェックしているのは女性が多い。ただ男性との違いがある。男性は自分が降りる駅が近づくと携帯のオペを終了する。ところが女性は終われない。終わらないのではなく、終われないのだと知った。何人もの女性がドアが閉まりかけて携帯に視線を釘付けにしたまま飛び降りる。急いで降りるのはまだ良いほうで、降りる途中に立ち止まったりする。でも、ドアが閉まる心配の無いことを知っている。まだ、乗る客が乗れないで待っているからである。おんなは携帯のメールチェックを我慢出来ないのである。
たまに、男でもそういう風なのがいる。共通点があって、ほとんどが草食系である。

ドクターバーンズの一ヶ月目

2010年12月11日

ドクターバーンズを服用し始めて約一ヶ月たった。
検査をして定量的に把握しているわけではなく、あくまで感覚だからその日その日の気分で印象はかわる。
だが、一ヶ月間とこの12月の時期で例年とは明らかに違うことがある。
手の先、足の先が冷えないことである。
今年は例年よりも暖房の温度を低く設定しているから暖房のせいではない。
実は小学校の頃から子供らしくなく手足が冷えていて、祖母が私の手とか足を触っては‘冷えてるね。かわいそうに。大人になるともっと冷えるよ‘といわれていた。
そんなわけで、11月頃になると冷えるのは当たり前、と言う長年の感覚だったが今年はどうもちょっとちがう。
例年のようにどんどん冷えてくるというかんじではなく、しかもソックスを履いたりするとすぐ温まるし手も暖かい湯につけるとすぐ温まる。このところ少なくとも家の中では素足である。
現象的には末端の毛細血管まで血行が良くなったということだろうか?

桃色式部さんのコメントから、、、、

2010年12月10日

記憶力の減退を嘆いていたら桃色式部さんから、自分もそんなことはしょっちゅうある、との慰めの言葉をいただいた。
しかし、顔も姿かたちもはっきりビジュアル的に頭に浮かぶのにそれが名前でいうデータと結び突かなくなっているのは明らかに頭の中の回路が切れている。
それに、ビジュアルで思い出せるということはひょっとして頭の中の記憶は名前という抽象的なものを記憶するよりも画像映像を記憶するほうがつよいのかもしれない。
もしそうであれば名前を記憶するときに名前の文字とその人の顔を何度も見比べるとしっかり記憶できるのではないか、などと記憶力を強化するためのむなしい工夫をいろいろ試みている。
ところで、最近衰えているものに目力がある。海老蔵ほどの眼技、眼力は必要ないが、しかし目が光っていることは見た目も重要である。視力の低下もできるだけ抑えたい。
本、しかも少し古くなっていて紙が黄色くなっているため印刷された文字とのコントラストが少ない本をしばらく読んでいると文字が霞んでくる。
数日前のことだが、偶然そのような状況になったときコメカミに両手を当てて強くマッサージをしたところ視力が戻った。手足の筋トレはするが眼球を動かすのも筋肉だから筋トレをすればよいのだ、と気がついた。
ひょっとして胃腸もそうではなかろうか?随意筋の筋トレは出来るが不随意筋の筋トレはできないのだろうか?ひょっとしたらヨガにそんな秘法があるのでは?

記憶力、理解力、集中力

2010年12月 7日

以前から記憶力の減退は感じていた。よくあるように人の顔は思い出せるのだが名前を思い出せない。その傾向はますます激しくなってきているがそれだけではない。
理解力も衰えてきているし、集中力も衰えてきている。理解力の衰えと集中力の衰え葉相互に関係がありそうである。
たとえば、ちょっと難しい本を読み始めると30分くらいしか持続できない。しかも知らない内容の本を読むとさっぱり理解が進まない。
そんなわけで、読書に関しては数冊の本を用意しておき一冊が30分しか読めなかったら次の本に乗り換える、というようなことをしている。細切れに読むものだから次に読んだ時には前に読んだことをかなり忘れているのでまた少し読み直すということをする。
したがって読書はなかなか進まない。
集中力対策はこのようにひとつのことに集中できなくなると次のことに移動することでなんとか対処している。しかし、読書はこれでよいのだが考え事も考えるということを持続しないと考えが進まないことが多い。こんなときは、まったく年寄りじみているのだが、散歩に出かける。しばらく歩いていると考え込んでいたことの解決案がひらめくことがある。
ただ系統だった方法ではないので記憶力、理解力、集中力を維持するための訓練方法はないか、と考えながら週末に歩いていたらはっと思いついた。まさに、思いつきである。
それは、語学の勉強をすること。語学は記憶力と理解力と集中力が要求される。
しかも、まったく知らない外国語はまだたくさんある。そこで思いついたのは複数の語学を並行して学ぶことにより集中力欠如の対策とし、理解力と記憶力を鍛えるために異なる三つの外国語を選んだ。もちろん、なんらかの必要性が無ければ取り組む気にもなれないので少しは必要性がある三つの外国語、韓国語、中国語、イタリア語をえらび、それぞれのNHKのテキストをまず買ってきた。それが写真の三冊の本である。
面白いことにこの三つの言語は文字が異なる。したがって、ひとつの言語からほかの言語への類推は効かない。ところが自分のこれまでに持っている知識とは少しだが取っ掛かりがある。韓国語は文法が似ているし言葉そのものも似ている。中国語は漢字に関しては想像力が働く。イタリア語はイタリア料理が好きだからかなり親しみがあるし、なんと行ってもアルファベットであるし、意味はわからなくても発音はできる。
これが今月からはじめたチャレンジである。
少なくとも三日坊主にだけはならなかったが、、、、いつまで続くかはわからない。
投資したのはNHKのテキストだけだから途中でやめてもロスは少ない。

喧嘩両成敗

2010年12月 5日

江戸の昔、将軍も三代目をすぎた頃世の中は成長も止まり、これと
いって夢のあることも起きず、、、、
そのころ、旗本にも町人にも歌舞く者が現れ静かな世の中では嫌われものになり、お上にとっては厄介な存在になっていた。
旗本で歌舞いているものを旗本奴、町人で歌舞いているものは町奴とよばれ、彼らはところかまわず相手かまわず喧嘩を売っては騒ぎを起こすので世の中の鼻つまみであった。
そんな旗本奴のなかに、普通は歌舞くのは行き所が無い次男、三男であるのに、どうしたわけか三千石の大身の旗本、市川家の嫡男がいた。
海老左衛門という。
ある夜、いつも徘徊する麻布の岡場所あたりで女をはべらせ酒に飲んだくれていた。そこにたまたま入ってきたのは町奴の親分の蔵前の力太郎とその一党。海老左衛門はいつものごとく酔った勢いでこの親分に喧嘩を吹っかけたのだが、力太郎はかねてから知っている市川家の嫡男であるから適当にあしらっていたら、この相手、ますます増長して罵詈雑言の連発の上、酒の強要までする。
見かねた手下の黒駒の玉蔵が間に割って入るとたちまち殴り合いの喧嘩に、、、
店もこれでは溜まらぬと裏木戸から外に追い出したがまだ喧嘩は続く。
腕っ節の強いので知られた玉蔵相手では海老左衛門も勝ち目無く、旗本の面目も無くようやく逃げ出し屋敷にたどり突いたのだが、動転した家人が町奉行所に連絡。この手のことは本来は後日穏便に収めるのが慣わしにもかかわらず、それを知らなかったから事が表ざたになってしまう。
さっそく、翌朝の読売には‘旗本の御曹司、岡場所で大怪我‘と書かれ街中が知ることになる。
数日して、酒の上の喧嘩ごととわかったが、本来は侍であり、大身旗本の長男の起こした喧嘩でさらに悪いことに町奴にぼこぼこにされたことから旗本間ではそのだらしなさに非難ごうごう、結局は喧嘩両成敗の原則で玉蔵は遠島、海老左衛門は切腹。嫡子が切腹したので市川家はお家断絶となって一件落着。この‘歌舞く‘が現代の‘歌舞伎‘ノ語源になっているそうである。