オンラインジャーナリズムとメディアの未来

2010年8月31日

米国の雑誌にForeign Affairsという隔月発行の雑誌がある。
その名のとおりおもに外交政策に関する雑誌で米国の外交政策および安全保障に関する考え方など政治にかんする方向を知るのにはよい雑誌である。
その雑誌のいくつかの記事を翻訳して日本語で出版されているのがフォーリンアフェアーズレポートという雑誌である。
この雑誌は日本語なので気楽に読むことができる。
その8月号に興味ある対談が収録されていたので主なポイントを紹介する。
ポイントはネットの本質である双方向について完全に理解し、双方向がメディアへの読者の参加を可能にし、読者と記者の双方からの情報発信、オピニオンの発信なしには将来のメディアは成立しないという共通認識である。
対談のテーマは‘オンラインジャーナリズムとメディアの未来‘である。
たまたま現在ジャーナリズムに関係のある仕事をしているのと大学ではメディアとコンテンツに関する講義をしている関係でこのタイトルが目に飛び込んできた。
対談のメンバーは米国の主な新聞のトップ、あるいはトップの経験者である。
そこでの主な発言は次の通りである。
いまや人々は多くのソースから情報を入手できるので‘すべての人々のために全てのニュース‘を提供する必要はなくなった、、、
ジャーナリズムの世界では本当に驚くべきことが現実になろうとしている。いずれ記者が書いたものにユーザーがコメントを寄せ双方向の交流が起きるようになるだろう。政治記事についても例外ではなくなるだろう(ワシントンポスト上席副会長)ユーザーによるコメントの書き込みは非常に力強い。そして、記者がこのコメントに対して双方向の交流をすることは非常に大切だ。これによって、真空地帯のなかで誰かが声をあげている感覚から開放され、どこかの家で話をしているようなかんじになる。
これが米国公共ラジオ放送(NPR)の声だ。(NPR会長)我々(メディア)は読者よりも事情通だし、あなたが知っておく必要のあることを伝えよう。。。そんな時代はもう終わっている。
この点を理解しない限り、今後、メディアが成功することはあり得ない。(USAToday出身、現ポリティコ編集長)対談の仲にはほかにもいろいろ示唆に富む発言があるので
次回も引き続き紹介する。

足が言うことを聞かない

2010年8月31日

年齢を感じることのひとつに身体が言うことをきかなくなることがある。
たとえば、徹夜がきつくて出来なくなるとか、、
私の場合は朝まで遊びほうけることが出来なくなったのは61歳の
ときだった。40肩、50肩もおなじたぐいのことだろう。
最近は、足が持ち主の言うことを聞かなくなった。
昨日の朝も、電車に乗るとき前の若い男の人のアキレス腱あたりをわたしの左足のつま先が蹴飛ばしてしまった。
蹴飛ばされた本人はあれっと振り向いただけで大事に至らなかったが、、、
これが怖そうな人だったら大変なことになっていたかもしれない。
結構強く蹴飛ばしたから、、、
本人はまったくそのつもりは無かったのである。勝手に左足が行動した。
たまたま、通勤時間をちょっとすぎたころ、電車に乗るときに携帯を覗き込み、何か操作しながらトロトロと乗りかけている若い人の後ろから、私は乗ろうとしていた。その若者の前の人はとっとと乗っていたので前は空いている。
若者は前をみることなく携帯画面に見入っているらしく、私の足が勝手に動いて、その若者のアキレス腱あたりを蹴飛ばしたのである。幸いなことに携帯に没頭していたらしく、蹴られた痛みもなにかが軽くぶつかった程度の感覚でちょっと後ろを振り返っただけで終わった。ただ、携帯を覗き込むのは中断し急いで電車に乗っていったが、、、
先週もこれに類することがあった。
都心の地下鉄の長い降りのエスカレーターに乗っていたときである。
わたしの前の人は熱心に携帯ゲーム機を操作している。
その人の前はすっかり空いていることにも気がつかず、、、
ホームに地下鉄が入ってきたのも気がつかず無心にプレイしている。
当然だろう、耳にはイヤホンを突っ込んでいるのだから。
そのとき、突然わたしの左足が勝手に前に出た。前の若者の膝の裏に足の先がぶつかった。若者は膝を折られたごとく、エスカレータの途中でがっくり、膝を落とした瞬間イヤホンがはずれ、電車のホームに入ってくる音が聞こえたのだろう、とたんにエスカレータを走り降りていった。
その人は電車に間に合って飛び乗ることが出来た。これは私の左足の勝手な行動のおかげである。
たまにはこの、言うことを聞かない左足も人に役に立つことをする。

良い男(2)

2010年8月30日

前回の‘良い男(1)‘では中学に入った頃永井荷風に惹かれた事を書いた。
荷風に惹かれたのはその生活のスタイルとその文章の透き通るような表現だった。
高校のころはあまりはっきりした記憶はない。
そのころは受験校の受験圧力から逃れるように女の子と音楽に関心を集中していた。
実は、通っていた中学高校は学者の子弟が多く、その影響もあって学者という人種に関心を持ち始めたのがこのころである。
数学者の岡潔氏の、晴雨に関係なくゴム長靴をはき傘を持った姿を覚えているのは憧れがあった証拠だとおもう。能力も無いくせに数学に興味をもったのもその頃である。
たしか、大学に入ってからのことだと思う。その頃シャンソン歌手のシャルル・アズナブールの‘イザベル‘という歌が好きだった。アズナブールのなんともいえないエロティックな声に惹かれたのである。
来日したときにはもちろんその公演に出かけたのだが、公演のあった翌日に今でもはっきり覚えているのだが、芝の東京プリンスホテルの地下のショッピングアーケードに出かけたらアズナブールが歩いている。そのときはかなりのいい年に見えたが、多分50台の半ばくらいだったのだろう。東京プリンスホテルに泊まっていたらしい。
当時はこのホテルは外国からの芸能人によく利用されていた。
そのアズナブールが連れていたのは真っ白のライダージャケットに同じく真っ白な極端に短いスカート、それに真っ白なブーツを履いたまっすぐな金髪を肩の長さですっきりそろえた、どうみても20前の女性である。
小柄でしわくちゃな感じのアズナブールとは強烈な対照だった。
その姿をみたとたん、自分も将来ああなれたら、、、、と思ったことははっきり記憶している。

six sexes

2010年8月26日

生物学的には人間には男と女の二種類しかないのかもしれないが、、、
Six Sexes。
実はかねてから人間の場合はほかの哺乳類に比べて知能的に発達してしまっているので生物学的な性別のほかにイマジナリーな性別もあるのではないか、と思っていた。
つまり、ストレートの男と女、レズの男と女、ゲイの男と女である。合計するとSix Sexes.しかし、もっと種類があることがわかった。
すきなテレビチャンネルにUSのテレビドラマ専門のAXNというのがある。
CSIシリーズなどを放映しているチャンネルである。
このチャンネルにこれまでは興味が沸かなくて見なかったドラマに
Brothers & Sistersというのがある。今日、たまたまほかに見るべきものが無かったので見ていたらこのドラマを見ていたらさらに二つのカテゴリーが紹介されていた。バイの男とバイの女である。つまり性別は6ではなく8種類あるというわけ。
いろんな性別の男女を取り上げたドラマ、Brothers & Sisters.
チャンスがあれば見ることをすすめる。自分の知らない世界がごく当たり前の世界のようにドラマ化されている。
すくなくともテレビドラマにかんしてはUSはいろんな意味で進化している。
最近の日本のテレビチャンネルは韓国のテレビドラマで蹂躙されている。
どこか日本のテレビドラマは行き詰っているのではないだろうか。
そんなときにAXNのドラマはヒントを与えてくれると思う。

長野県小布施

2010年8月25日

久しぶりに長野県に出かけた。いつもはせいぜい小諸、上田あたりまで
だが今回は小布施まで足を延ばした。

小布施は以前から興味があった場所である。
なにしろ北斎が超晩年の数年間、90歳の手前まで滞在し制作をして
いた町だから。ただ、今回は北斎だけが目当てだったのではなく町が戦略的に観光開発
をした街であるのでどのように作られているのかを見るのが目的だった。
写真の一枚目は信金の入り口である。藍染ののれんにしんきんと染め抜かれている。信金まで観光の要素として仕立て上げているところに関心。
もちろん、建物は木造風、和風である。さっそくATMを使ってみる。最新型のATMが気持ちよく動く。ATMコーナーは程よく冷房が効いていて入るとほっとする。
この信金の裏には20台くらいのパーキングがあり、信金の横の道から出入りする。駐車場が完備しているのは昨今の観光地の必須条件である。
二枚目の写真は信金から出た、表通りの歩道の敷石である。これは実は敷石ではなく、間伐材を小口を上にしてブロックを敷き詰めたものであり、足ざわりがとてもよい。
1時間ほどうろうろ見てまわって蕎麦屋で十割そばを食べて次の場所に移動した。
観光地域は歩ける範囲にほとんど揃っている。揃っているのではなくて計画的に揃えている。
この街は北斎以外に特に観光資源はない。自然はとくになんということのない場所である。それを街として計画的につくりあげたところにその地域全体としての何かを感じさせる。
みやげ物やで売っているものもとくに小布施で昔から伝わった名品というわけではなく、みやげ物として考えて企画してるくらいのものである。
地域としての意匠、観光客の交通手段とその受け入れる体制、企画し開発された、へんなこだわりのないみやげもの、、、、名所旧跡を点でアピールし観光資源化するだけでなく、いくつかの点を作り、それをつなぎ面として構成し、しかも歩ける範囲に集約し、来る人のアクセスに対しての備えも十分配慮された街、まさに観光誘致のために計画的につくられているところが小布施の特徴ではないか。
最近の観光立国ブームにあおられあちこちのこれといった観光資源のないところまでむりやり観光地化しようという動きがある。資源が無いから観光誘致ができないということではないが、強力に人を引き寄せるものがなければそれを創り出せばよい。さらに、観光は点ではなく面であり、アクセスである。点があり、それが面を構成しその面にアクセスする仕組みが組み合わさればそれなりの観光地を創り出すことができる。
昔はやった言葉で表現すると、一点豪華主義だけでは不十分であり、公共交通機関が整っていないところでは車でのアクセスが多いだろう。
地理に不案内な観光客が迷うことなくアクセスでき安心して止めておける駐車場の配置も大事であることも知った。酷暑のなか、ここまでやってきた甲斐があった。
小布施には観光客向けの街としてのシナリオが感じられた。ひょっとしたら想定する観光客の行動シナリオを描いてそのシナリオに沿って開発したのだろうか。

ワシントンポスト、増収増益

2010年8月24日

新聞は構造不況業種だといわれ久しいが、アメリカの新聞業界は生き返りつつある。
今月、アメリカの大手新聞社の4社、すなわちニューヨークタイムス、
ウォールストリートジャーナル、USA Today,ワシントンポストは揃って黒字を確保。
中でも、ワシントンポストは対前年同期で増収増益を計上。営業収入は前年同期にくらべて11%増の12億181万ドル純利益は同じく7.5倍の9190万ドル。
ワシントンポストでは新聞事業は紙の新聞とネット配信を統合しているが、この部門ではネット関連事業の伸びが影響し前年同期にくらべて赤字幅が大幅減。
新聞発行部門はネット新聞の配信と合計して2.3%増の1億7273万ドル。紙の売上げは減ったがネットの売上げが14%増加した。前年同期の赤字額8934万ドルが今期は1430万ドルに縮小。ちなみに新聞事業全体に占めるネットの割合は15.6%となった。
ワシントンポストの主力事業はいまや教育事業で、この部門の収入は対前年比で15%増の7億4732万ドル。ワシントンポストだけでなくほかの三つの新聞社の事業内容も見ないと
はっきりはいえないが、ワシントンポストは新聞を発行している教育事業会社であるといえる。
ほかの三つの新聞社も何らかの事業転換をすすめて新聞事業を維持しつつ収益を生むビジネス構造の転換に成功しつつある。
日本では一部でアメリカの新聞事業は死んだ、というような記事が出たり本が出たりしているがどっこいがんばって事業転換をしつつ新聞を残している。
彼らの努力から学べることが多いのではないだろうか。ワシントンポストが重点を置いている教育事業はたしかに啓蒙を使命としているところでは新聞と共通のDNAがあるのだろう。

憧れの西部劇スター

2010年8月19日

憧れの西部劇スターとはだれですか?との質問をいただいたので
そのことについて、、、
実は以前マリリンモンローについて書いたときがあったが、彼女が亡くなったのは私がちょうど浪人(大学入学の)していたときである。
その頃、友人の父親が優秀映画鑑賞会の審査員かなにかでその友達と一緒に試写のチケットをもらっては映画をみにいっていた。
中学から高校のころである。
たまたま中学と高校がつながった学校に通っていたので高校入試の勉強はしなくてもよかったので結構楽しんでいた。
そのころの映画で今でも印象に残っているのはクラークゲーブルとマリリンモンローが主役の荒馬がテーマの西部劇。
この映画はたしかクラークゲーブルの遺作ではなかったかとおもう。
マリリンモンローもこの映画のあとしばらくて亡くなったのだとおもう。
華やかだったハリウッドの最後のころの映画で、かなり年をとったクラークゲーブルのわびしい感じも、精神的なダメージが表情に現れていた影の濃い悲しげなマリリンモンローの表情も印象的で、その後まもなく二人とも死んでしまうのだがそれを予見させるような雰囲気とうらぶれかけたクラークゲーブルに惹かれた。
風とともに去りぬのレッドバトラーを演じていたころのクラークゲーブルは脂ぎっていてどちらかといえば嫌いだったのだが、、、、
もう一組、印象に残っている俳優がいる。
映画はテキサスの石油発掘をテーマにした‘ジャイアンツ‘。
この主演のジェームスディーンのすさんだ感じがとても好きだったしそのすさんだ男に惹かれていたエリザベステーラーも若草物語の若いころとは違ってとても女くさく、そのくささにあこがれていた。
シェルブールの雨傘という映画をみて、そこに出てきたまだ10代のカトリーヌ・ドヌーブを見てあまりもの猿顔なのに驚き、どうしてこんな顔をした人が女優に?とフランス人のテイストに疑いをもったのもたしかこの頃だったとおもう。
優秀映画鑑賞会推薦の映画のチケットを貰って見に行っていた頃はそれなりによい映画を定期的に見ることが出来ていたが、大学に入ってから自分の金で見に行くようになってからはすっかり娯楽映画の路線にはまりその頃は007にすっかり引きずり込まれていた。

`良い男‘とは(1)

2010年8月19日

また、例の女性ブロガーから質問が来た。
今回の質問は、男性についてである。
‘ひろせさん、ひろせさんからみてどんな男性が‘良い男‘ですか?
そこで、しばらく‘よい男‘をテーマにしてみる。
この質問をもらって、気がついたことがある。よい女性とは、ときかれると比較的すらすら答えがでてくる。
自分が男性であるがゆえに女性を客観的に見ることができるからであろう。ところがよい男とは、ときかれると答えに窮してしまう。
抽象化できないのである。それは自分が男性だから客観視できないのではないかとおもう。
そこで、直接的な答えにはならないとおもうが、自分が人生の時々にこんな人がよいな、とおもったりあこがれた男性がいる。
それを順番に思い出してみてその共通点があればそれがわたしの個人的な‘よい男‘と定義しようとおもう。
まずはじめに……
小学生のころはこんな人になりたい、なろう、あるいはあこがれたという記憶はない。せいぜいあって当時は大好きだった西部劇のヒーローであろう。
はじめてこんな人は面白そうだと思った人を見つけたのは中学に入ってしばらくしたときである。
私の通っていた中学の卒業者名簿を見ていたら永井荷風という人がでてきた。
当時は自分のなかでの印象は、四畳半ふすまの下張りの作者ではないか、と言われていたくらいの認識だった。
名前をみつけたのでさっそくアメリカ物語というのを探して、少しだけ読んでみた。
その文章はとても軽やかで気持ちよく読めた、という記憶である。
そんなことがあって、あまり荷風の人となりを良く知らないままでも、中学時代は荷風がなんとなく自分の理想像であった。
それが50年以上たった今でも荷風の行き方になんとなく憧れがあるのが不思議である。いまもある種、自分の理想のタイプである。
それは荷風がまったくの江戸っ子であるところ、自分独自の価値観と生活スタイルをもっているところ、そうは言え結構世俗的なところ、しかし必ずしも下卑ていないところ、その都会的なこだわりがあってもそれを見せず軽やかさを意地で装っているところ……などであろう。

地下足袋がトレンド?

2010年8月16日

この半月ほどのあいだに地下足袋の話題が2回も出てきた。
そこで、10年以上も前に買ったナイキが登場


地下足袋の話題を見たのはテレビである。
ひとつは先月の後半、テレビで軽登山のガイド番組があった。夏休みに登山に出かける人向けと、もうひとつは最近ブームの女性の登山希望者向けの内容である。
そこの話題で、登山は登りよりも降りが厳しく、足の筋肉の負担も
降りのほうが大きい事を話題にして、したがって、疲れも降りのほうが大きいという話だった。
そこで、山歩きの専門家の話があり、降りでもまったく軽々と疲れも知らずに山を降りていく人たちがいる、とマタギが紹介され、かれらの履物とその降り方が紹介されていた。
そのとき、マタギが履いていたのが地下足袋である。
番組は疲れ少なく安全に山を降るにはそこが厚くて固い登山靴よりも底が柔らかくて軽い地下足袋で歩幅も小さく降っていくことが筋肉にたいする影響が少なく疲れないと紹介していた。
それをみて、ひょっとしたら山好きの女性の間で近いうちに地下足袋がはやるのでは、と思ってみていた。
ほんの数日前のことである。
テレビで来シーズンのトレンドのハイライトをやっていた。そこで取り上げられていたのがファッションとしての地下足袋である。
いろんなデザインがあるが基本は地下足袋。なかには地下足袋ブーツまで登場。
そのとき、思い出したのが10年以上前にマンハッタンのSOHOのナイキショップで衝動買いをした地下足袋スニーカー。まだどこか家の中にあるはずと思って探し出したのが写真のスニーカーである。
まさに地下足袋スニーカーでさらにアッパーが無くてベルクロのベルトで止めるようになっている。買ったときは海岸で履こう、と思った記憶がある。
ただ、見てのとおりかなり突拍子もない格好なので、買ってから実際にはいたのは1,2回だけ。そこで、この週末から、先端ファッションの先取り気分で近くをあるきまわるのに履いている。
まさに足袋の履き心地で底も適度に柔らかく、この暑さでもまったくむれないので快適である。今年の冬は地下足袋がはやるだろうから、今のうちに作業用の地下足袋を買占めて、いろいろペイントしたりしてビジネスにするのはどうだろう?

夏の読書テーマ

2010年8月12日

お盆近くになると最近は毎年、その休みに集中して読書するテーマをきめる。大げさにテーマを決めても1冊、あるいはせいぜい2冊しか読めないのだが、、、、
イソップはかなり以前の読書のテーマであった。
イソップの教訓がビジネスに役に立たないか、と思って読んでみたことを覚えている。イソップの一つ一つの寓話はとてもうまく人生を表現されているがそれをいざビジネスの教訓に焼きなおせないかという視点からみるとなかなかうまく翻訳できない。
何かテーマを作ってそのテーマについてたとえ1,2冊でも集中的に読むとそれ以降そのテーマに取り付きやすくなる。
今年のテーマはクルト・ゲーデルの不完全性定理である。
以前から世の中はどこまで行っても不完全ではないか、とおもっていたがリーマンショック以来さらにつよく感じている。
何年か前の夏には神学をテーマに選んでバルトの教会論を読んでみた。神学というのはおかしな学問である。
中身は大きく二つに分かれて、神であるキリストの存在を証明することがひとつ、もうひとつは存在の証明にもとづいて教義をひろめることである。まさに教義のマーケティングである。
存在の証明においては処女マリアからうまれたことと死後の復活の正当性を議論する。
処女から人が生まれるはずも無いのだから落ち着いた世界ではそもそも生物学的にそんなことはありえないし、一旦死んだ人が生き返ることもない。
ところがそう起こりそうに無いことが起きたのだから、キリストは神なんだといいう。
布教に関する部分では、このありそうも無いことをいかに信じ込ませるか、という点であり極めて高度なマーケティングである。そして、教会は布教のためのすなわち信じ込ませるための舞台装置であり道場なのである。
無いものをある、というのだからいろんな証明、説明、解説がでてくるのは当然だろう。
こんな視点から進学の本を読むと面白くて、その夏はバルトの教会についての本しか読まなかったがそれ以降、気楽にその分野の本を手にしてはかじってみている。
この夏もゲーデルをテーマにしたが不完全性定理の文庫本を一冊読みきるのがせいぜいだろう。完全なものは無いのだ、ということが納得できれば十分だとおもっている。