若すぎる死

2013年2月24日

先ほど、20日に亡くなった飯野賢治さんのお通夜から戻ってきた。
1時間程の読経の間はかれと仕事をしてときのことなど思いめぐらす
には短いくらいだった。
仕事で共通点をもったのは1998年の正月にセガに最初に出社した
日だった。当時開発中だったセガの家庭用ゲームコンソールの主要な
ゲームクリエーターの一人であり、社外から応援してくれた数少ない
一人だった。15年前だから、彼は当時はまだ20代の後半だったわけ
だが第一印象はとても頼りがいのある人、という感じだった。
その後、ゲーム機の開発が進捗する間、約10ヶ月ほどあったが飯野さん
もまだ不自由な開発機を使いなたら同時並行的にゲームの開発を
進めていた。
その間、印象に残っているのは開発のそれぞれの段階で、開発機を
使って彼が見つけた不具合、あるいは改善点などを教えてくれるときに
それが極めて論理的でわかりやすいことだった。この手の感想は
どうしても感覚的な表現になりがちだがかれの明快で論理的な説明、
提言を聴きながら、その豪快な外見からは想像し難い繊細でかつ
精密な思考構造に何度も感心し、脱帽した。
その後自分は方向を変えたので一緒に仕事をする機会はなかったが
それでも1年に一回程度は接触する機会があった。
享年42歳である。
若くから活躍していたから、人の二倍の人生を送っていたとすれば
84歳に相当する人生だったかもしれない。
しかし、見ている立場からするとこれからが楽しみだったのに、という
気持ちである。
自分を振り返ると42歳のときは最初の会社でのサラリーマンだった
時で、実は42歳の終わり頃から急速に状況が変化し、自分の間口
が広がりだしたときだった。
今感じる面白い経験のほとんどは42歳以降である。
人は同じではないから何とも言えない。
しかし、ひょっとしたら本当に飯野賢治が爆発するのはこれからだった
のではないか、とかれの遺影を見、日蓮宗のお坊さんの読経を聞き
ながら思いめぐらしていた。
その爆発を見てみたかったという思いでいっぱいである。
残念というしかないのだろうか。

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