事実と主張、論評

2014年9月16日

このところ新聞テレビをにぎわしている、朝日新聞の件に絡んだことである。
今回の件は新聞とかテレビの報道番組とかの在り方を見直す良いきっかけになれば結果的には良かった、という事になる可能性もあるが、、、、
そもそも、メディア全般というよりは新聞について考えるとこんな事が言えるのではないだろうか。
新聞に期待しているのは、出来るだけ信頼できる事実を伝えてもらう事と、さらに其の事実について、新聞としての見方、意見を知らせてもらうことではないだろうか?
同じ事実を取り上げても新聞によって主張が違うであろうことはわかっている。ところが、事実そのものの伝え方の段階ですでに事実のなかから主観的に取捨選択した部分だけを伝えられると、事実そのものの姿がわからなくなる。
よく政治家が、マスメディアは自分たちの都合のいいところだけを切り貼りして伝え、発言しているこちらの趣旨、全体像は伝わらない、とか言っていることがある。
事実を取捨選択して自分の主張に都合の良い部分をもっぱら事実としてならべ、それにたいして、それぞれの主張をする、というのがこのかたちであろう。
もちろん、客観性薄く伝える側の都合の良い事だけをハイライトして使えるというところに既に読者から見ると問題があるのだがそれでも、都合良く並べられたとしても、其の並べられた断片は事実である。並べ方によって見え方が変わってしまったとしても、である。
ところが、事実だ、と称して並べられた事が既に事実ではなく、ある意味で伝える側が主張したい事を事実に見せかけて並べられてしまうと、その後の主張のところで其の事実を追認するがごとく繰り返されたら、其の主張は事実に基づく、事実を素直に眺めた事から生まれる、みたところ妥当性のあると思われる主張となる。
読んだ方は、事実であり、それを半ば繰り返しているようなものだから、もっともなことだ、と其の書かれた事を疑いも持たずに信じてしまう。
この、事実であるがごとく見せかけて、送り手の都合の良い主張を織り込む、ということになってしまうと、事実が何なのか、分からなくなってしまう。事実を誤認させるための手段としてこれまでの新聞のもつ信用を逆手に利用された、とおもってもしかたがないだろう。
今は朝日新聞のことがとりあげられている。しかし、事実として書かれるべきところを主張をあたかも事実のように見せかけて発信されているようなことは他でもあるのではなかろうか?こう思うのはけっしてじぶんだけではないだろう。幸い、ネットの時代になって今や情報源は新聞、雑誌、テレビだけではなくなった。
ネットの場合は聴き手が送り手にたいして、本当か?と問いただす事も可能な仕組みになっている。今回の問題は結果として、朝日新聞だけでなく、他の新聞も含めてすべての新聞に
たいしてほぼ確信的な疑いをいだいてしまったのは自分だけではないだろう。
一度失った信頼を取り戻すには時間がかかる。ひょっとしたら新聞業界にとっては信頼を取り戻すのに必要な時間は、もう、残っていないかもしれない。

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