電池

2009年11月 2日

1970年代の初めに、車用のエアコンがロータリーコンプレッサーになり小排気量の車でもエアコンが積めるようになり一気に普及した。
それが技術的なきっかけになったのか、同時並行的に家庭用のエアコンも普及期を迎えた。
このように、あるところでひとつの技術が実用化されると、その技術がほかの分野にも広がり、そのほかの分野でも新しい商品が開発され普及する、技術にはそのような伝播力がある。
したがって、ある分野での新しい技術が製品に導入されていく状況を見ているとその技術が次にどんなところでどんな展開になるのか予測することができる。
近いところにあるのは電気自動車である。電気自動車はバッテリーで駆動される。
バッテリーは長期的には燃料電池になるのであろうが、当面はリチウムイオン電池である。
そのリチウムイオン電池が電気自動車のために開発が進みどんどん高性能化していく。その一方で、エコの観点からの太陽光発電、あるいは風力発電など小口あるいは家庭レベルでの発電が広がりつつある。

ただし、今の難点は発電されたものを貯えておく設備である。これがリチウムイオン電池の開発と普及が進み安価になると電気の蓄積設備として使われるようになる。
そうなると、太陽光発電などの家庭での発電が急速に普及すると予測される。

権力闘争

2009年11月 2日

昨晩(11月1日)のNHKスペシャルのテーマは小沢一郎と権力闘争であった。
出だしを何の気なしに見ていたら引きずり込まれて、結局最後まで見てしまった。

ところでお恥ずかしいことだが、この番組を見て、この年になって、はじめて政治は権力闘争そのものであると知った。

これまで、政治家とは政治をする人だと思い、その人たちを見て政治とは一体何なんだろうとおもっていた。

しかし、昨晩のテレビは政治の本質はいざ知らず、実態は権力闘争そのものであることをものの見事に描いて見せてくれていた。
自民党にとっては政権与党であり続けることが何よりもまして優先テーマであり、また、党内においては総理大臣になることがその目的であってそれがあったうえでのまつりごとであるのである。
それを1990年代の前半に一度自民党が政権与党から離れたときからの与党に戻るまでの闘争を権力闘争の実態として描き出している。

また、いったん政権与党になったらその中では自民党総裁選のたびに党内出の権力闘争が繰り返されているわけであり、政治はそのあいまになされているわけである。
そう見ると昨今のように短期間に総理大臣が何人も代わる時代にはそのたびに党内の権力闘争が起こり、それにほとんどのエネルギーを消耗しているのが実態であったならとても政治がなにもできなかったのも十分うなづけるわけである。

本屋とレコード店

2009年11月 2日

昨日は、最近出版した自分の本が手元に少なくなってきたので恵比寿の駅ビルにある有隣堂まで買いにでかけた。駅ビルの5階である。
この恵比寿の有隣堂は本だけでなく、文具も豊富に取り揃えているので便利な店である。
規模も大きいので本も文具もほとんどのものが手に入る。

天気のよい休日であったにもかかわらず、店の中はかなりの賑わいで若い男女から高齢者まで幅広い客であふれている。
活字離れといわれている若い年代の男性女性が多数いるのは、読書ブームがやってきたのではないか、とおもうほどである。

しばらく、店内をうろうろしながら、自分の本以外に目に付いた本を買って店で勘定を頼んでいるとき、そういえば同じフロアにレコード店の新星堂があったことを思い出した。

ビルのエスカレーターのそばにあり通り道でもあるので立ち寄ってみることにした。

店を覗いてみると、まったく活気がない。店内には店員が二人、CDを探している客が二人、
ヘッドフォーンを耳に当てて試聴ひている客が一人、という具合である。しかも、レコード会社が主なターゲットにしている10代後半から20代のお客はゼロ。30台の女性が二人、試聴しているのは中年の男性で、80年代の洋楽のアーティストを聴いている。

若い人から高齢者まで店の中をうろつくのにも不自由なほど人に溢れていた本屋とこのレコードショップとの違いはいったいどこにあるのか?

気がついたことがいくつかある。

まず、本屋には本のバライエティが大きく分けて三つある。単行本、それをつくりなおした文庫本、それに雑誌である。

さらには娯楽読み物から文学、ビジネス、思想、歴史など非常に幅が広い。対象年齢層も子供から若者、高齢者まですべての年齢層となっている。加えて、どの年齢層にたいしても毎月多くの新刊が発行されている。

一方のレコード店にはCDとDVDの二種類が商品であり、音楽CDにおいては新しくリリースされた新譜と以前に録音されたものが引き続き販売されている旧譜の二種類である。先ほどの店内で中年男性が試聴していたのは80年代に録音され発売されたCDで旧譜と呼ばれるもののひとつである。CDの世界でも毎月多くの作品がリリースされるが、その80%以上は若者向けのポップスだといわれている。

さらにそのほとんどは日本人歌手による日本のポップスである。
音楽を聴く人、楽しむ人は老若男女を問わないのに、発売されるCDのほとんどは10代から20代をターゲットにした音楽である。

しかも、それはCDという形で発売されるのだが、この10代から20代がもっともCDから離れている世代であり、一説によると最近は10代でCDプレイヤーを持っていない人が
どんどん増えているという。

本はすべての年代に向けて新しい作品を出している。若い人は若い人なりに読書をたのしむ。
その一例に携帯小説の人気のあるものは印刷されて本になり、ベストセラーになる。

一方、中年も高齢者もそれぞれがその年齢が関心を持つであろう新刊本を買って、読んで、楽しんでいる。

一方のレコード店に関しては、新たに出てくるCDはほとんどが若い人向けのポップスであるにもかかわらず、その年代の人たちはどんどんCDから離れていっていて、CDプレイヤーを持っていて、携帯の違法の無料配信サイトからダウンロードするというようなことはせずに
CDを探しにきた中高年の人にとっては昔発売されたCDはあるもののなじみのあるベテランアーティストの新しい作品はめったに無い。
ある程度既にCDを持っている人にとってはCDショップに行っても新たな発見も楽しみもすくない。

こんなところの違いが本屋の込み具合とレコード店の静かさとの違いなのではないか、と考えながら恵比寿から中目黒まで歩いて帰った。

車中携帯と車中読書

2009年11月 2日

電車の中で携帯でメールを打っている姿を見るようになって、もうかなりになる。
すっかり見慣れたシーンである。ところが、最近、といっても今年の夏以降、
電車の中で目に付くようになったものがある。どうも、本を読んでいる人の数が増えてきて、
携帯メールを売っている人の数が少し減ってきたのではないか、という気がする。
もっとも、乗る路線の違いかもしれないが、、、

今朝も千代田線の中を見ていたら、向かい側の7人掛けのところで二人が携帯メールを、二人が文庫本を、一人が雑誌を読んでおり、残りの二人は居眠り。
引き続き乗った丸の内線では、同じく向かい側の7人のうち、携帯メールがひとり、文庫本を読んでいる人が二人という具合である。

ただし、新聞を読んでいる人は車中には3人しかいなかった。時間は朝の9時半ごろなのでもうラッシュアワーは過ぎていて、新聞はほとんどの人が家で読んできた人たちかもしれない。

活字メディアは衰退の傾向言われるが、本を読んでいる人がいると、そうとも思えない。

数週間前の新聞の記事にあったが、世帯調査をしたところ、活字メディアへの世帯支出について、年収400万円以下では減少しているが年収400万円以上、800万円以上、1200万円以上と所得水準が上がるとともにすべて増加している。
こんなところが車中の読書人口が目立つようになったことに関係しているのであろうか。

2.7メートル

2009年10月31日

通常、道路というと公道を示し、公道の最低道路幅は4メートルと決められている。
ただし、現実には4メートル以下の道路も多く存在し、それらは建築基準法42条第2項に定めるみなし道路、として定義されている。

それらのみなし道路の多くはその幅が2.7メートルである。
しかも、その2.7メートルの道では車のすれ違いは出来ないものの車は通行しているところも結構身かける。

さて、なぜ、2.7メートル幅の道が多く残っているのか。
これは昔の普通に歩行する道がこの幅が基準であったからではないかと推測される。
なぜ、そのように推測されるかというと基準がないにもかかわらず2.7メートルになっている道が多いので、これはむかしそのような基準が存在していたのであろう、とおもうからである。

そこでなぜ2.7メートルだったのか、というのを考えてみると面白いことに気が付いた。
2.7メートルとは1間半、つまり9尺幅なのである。
人が通ることを前提としているから、今の道路がくるまがすれちがうことを前提にしていると同じに、人もすれ違うことを前提にその幅を設定している。人間の体の幅は65センチから70センチの間である。二人分は65センチに70センチを加えると平均化された幅になるが、
それは135センチである。ちょうどその倍が270センチになっている。

今、4メートル、あるいは6メートルの道を歩いていて、人とすれ違う時にはすれ違う相手と
2メートル弱の間隔を置いてすれ違うことができる。これだけの距離があると相手と目をあわさずに済むし声をかける必要も生まれない。お互い、無関心で居ることが成り立つ距離である。ところが、2.7メートルの幅だとすれ違うときの幅はせいぜい1メートルだから当然相手の顔は視界に入るし、挨拶せずに通るにはなんとなく無愛想に思われる距離である。
少なくともすれ違う相手はどんな人かかなりきっちり見る事になってしまう。つまり、声をかけなくてもそこにはコミュニケーションが行われている。

街にこのような幅の道路があちこちにあればそこにはかなり親近感の沸く密度の高いコミュニティが出来上がる。

しかし、4メートルの道路であればお互い無視できるのでコミュニケーションのなりたく可能性がずっと少なくなる。

人が住む街を考えるとすべての道を4メートル以上にするのではなく、2.7メートル規模の道も積極的に残していくべきではないだろうか?
そうでないと、そのうち全国がお互い無関心ですれ違えてしまう街になってしまうのでは?
一説には4メートルという基準は緊急車両、とくに消防車が入れるため、といわれているが、実は最近、軽自動車のサイズの消防自動車が走っているのを見かけた。
あれなら、2.7メートルの道の奥まででもすいすい入っていけるだろう。

ひろせ

東京外環ひとまわり

2009年10月31日

今日は、一日、東京の外側を一回り近く移動。
まずは大宮からスタートし、その次は西東京市、さらに西に進んで小平まで行き、最後は江戸川区の篠崎までたどりついた。東京には10歳のときから住んでいるから、もう半世紀になるが一日で今日のような移動をしたのは初めて。

いろんなことが感じられておもしろい。
やはり、足で歩き、目で見るとメディアを通して知っているつもりになっていることとは大違いである。

元気な具合から見ると大宮が一番。
すぐ近くに大宮駅周辺の大きなビルが見えるところへ行ったのだがビル群が新しく、そのコンクリートが白く反射するのがまぶしいくらいである。
西東京市といえば、保谷と田無が合併して出来た新しい市である。ちょうど旧保谷と旧田無の境目にある道を走る。
まだまだこれから二つの地域の融合がはじまるのではないか、というエネルギーを感じる。

小平周辺は40年以上前からの住宅地域であり、多くの大学がその隣接する地域も含めて点在している学園地域でもある。
40年前に30歳代で住み始めた家族も今はもう70歳代になっているくらい時間が経過している。その時間の経過を感じさせる静かさがある。周辺の団地の住人も高齢化しているだろう。地域の高齢化を感じるのは歩いている人の姿とその歩みがゆっくりなところである。

最後の篠崎はもう、暗くなっていたが東京ゼロメートル地帯いわれた地域である。
隅田川を越えて荒川に近い。まさに町全体が平坦である。このすぐ隣には大規模な大島団地がある。帰りに都営新宿線の篠崎駅にいったら駅周辺がとても明るく、新しく降りてくる人たちの年齢も比較的若く、ひょっとしたらこのあたりはこれからの期待の地域ではないかと感じられた。
この地域は都営新宿線の開通によって都心からのアクセスが一気に良くなった。

東京は都心の変化に目を奪われがちだが周辺地域の変化は多様で面白い。

ひろせ