ヨーロッパ情報に強くなろう

2011年12月19日

このところヨーロッパは金融不安を中心にいろんなことが激しく動いているがなかなかヨーロッパに関する情報を得るのは難しい。
英語で読めるとしたらEconomistくらいだろうか。そんな中で最近再発見したのはビジネスアイという新聞である。
正式にはフジサンケイビジネスアイ。日本工業新聞社が発行している日刊紙である。
専門紙のカテゴリーで従来は製造業関連のニュースが中心の新聞であったが段階的にその姿を変えて現在は国内製造業のニュースに加えて中国関連、東南アジア数カ国、それにヨーロッパの経済ビジネス情報を提供している。
中国関連は上海の第一財経と提携したニュースが中心であり、ヨーロッパはブルーンバーグのニュースを提供している。
このブルーンバーグがレポートするヨーロッパ情報がもっとも新鮮でしかも継続的に毎日発信され、さらには日本語で読める。
このおかげでこの2ヶ月間ほどでずいぶんヨーロッパの金融情勢と事情を勉強することができた。
このヨーロッパ情報はどの一般紙よりも、あるいは専門紙よりも優れていると言っていいだろう。これから来年にむかってますますヨーロッパの状況は流動的である。ヨーロッパの動きに関心のある人にとっては絶好の情報源になる。
ただ、ひとつ問題がある。駅のスタンドでは売っていない。したがって、月刊購読が必要である。しかし、十分購読の価値あり、である。

リファレンスメディア

2011年12月19日

ネットのメディアはどんどん進化して行くから面白い。
しかも、最近はTwitterとかFacebookとか既存のプラットフォームを使って発信できるから発信に関係するシステムコストはほぼゼロである。
最近、教えてもらったメディアにonetopiっというのがある。
アイティメディアが発信している。サービスにはTwitterを使っている。
カテゴリーに細分化されたメディアで、しかも`斜め読み`サービス。
キュレーションメディアというかクローリングメディアというか、、どこそこにこんな記事、こんな情報が出ているよ、と教えてくれるサービスである。このサービスではメッセージの末尾に参照しているURLが記載されているのでさらに知りたいと思えばこのURLをクリックすればよい。
メディアが階層化してきている典型的な例だろう。
多分、このタイプのメディアは紹介してくれる人の能力が重要なのだとおもう。いかにその分野の目利きを集めるかが勝負だが、あまりこだわりの強い目利きでも困る。
適度な目利きを集めることが一番難しいことかもしれない。

円高のときは内需拡大のチャンス

2011年12月16日

円高で輸出競争力が損なわれ、大変だといわれている。
確かに、その通りだが、、、、だからといって一言で円高は悪い、と行ってしまって良いのだろうか?
円高で輸出が不利であれば、輸入は有利だろう。海外の市場の需要を満たすのが輸出であるとしたら国内の需要を満たすのが輸入ということになる。
もちろん、海外は大きな市場である。
ところで日本を見ると1億2000万人がいる、アメリカの半分くらいの人口を持つ国である。
そこにそれなりの規模のまだ顕在化されていない需要があるのでは?
この円高のときこそこの国内需要を徹底的に掘り起こすべきでは?
円高の今のうちに国内需要を喚起し国内のあらゆる水準を向上させる
という戦略はとれないものだろうか?
国内の需要喚起は国内でできることではないか?その中でもとくに消費需要は今の段階でもGDPの40%ほどを占めているのだが、これを徹底的に円高を利用して喚起する政策は作れないのだろうか、と考えたとたん、よっとしたら消費税の増税は逆に国内需要に水をかける
ことになってしまわないか?そうなればせっかくの円高チャンスが生かせなくなるのでは?
個人的に考えても、まだまだほしいものはあるのだが、、、、

政府日銀とは反対のクルーグマンの意見

2011年12月15日

円高はちっとも是正されない。企業は日本から脱出を始めている。
たとえば、日産がメキシコでの生産を大幅に増やすように、、、、
デフレで景気が回復していないのに、消費税を上げようとする。
自分ひとりが本当のことがわかっている、とばかりに振る舞い、国内では論理的説明の全く出来ないだれかがいる。どうも可笑しい、と思いしばらく前に読んだポール クルーグマンの‘世界大不況からの脱出‘という本を読み直しはじめた。
ポール クルーグマンは2008年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者である。
以下、その本の中の抜粋である。
ポール クルーグマンいわく:
積極的な通貨拡大策(つまり日銀がお札をもっと印刷すること)をとるべきである。
日本は1997年、財政の健全性を確保すべし、という主張により当時の橋本首相は消費税率を引き上げた。景気はあっという間に後退した。その対策のため財政出動をして、財政赤字はさらに拡大した。
1990年当時の日本のバブルは自然に破裂したわけではなかった。日銀は過剰な投機を心配し、刑期のガス抜きをするため金利を徐々にあげた。1991年になると地価と株価が下落はじめその数年後にはピーク時の60%にまで落ちた。バブルの崩壊は経済を健全にした野ではなく、結果的により深刻にしてしまった。
などなど、、、、
結論的にはクルーグマンの意見は緩やかなインフレ誘導をおこなうべき、とのことである。
多分、政府日銀はこの意見に反対だから今の行動をとっているのだろう。
今後どうなるか、このようなノーベル賞学者の意見も頭に入れて
、我々にできることは事態の動きを見守るしかないのだろう。
今の日本の施策に疑問を持っている人にはぜひお勧めしたい
クルーグマンの一冊である。

英雄伝説には標準パターンがある

2011年12月12日

英雄はきわめて高貴な両親の子供、たいていは王子である。
彼の誕生に先立って、禁欲生活、あるいは長期の不妊、あるいは
外的な力による禁止や妨害の結果としての両親の密会などの困難がある。
妊娠期間中、あるいはそれよりも早く、彼の誕生を警戒するように
との告知(夢、神託)が現れる。これはたいていの場合、父親にとっての危険を告げる脅威的なものである。
そのため、生まれたばかりの子供は、たいていの場合、父親あるいは父親の代理する人物の指示によって、殺されるか棄てられる定めとなるが、常のことのように、子供は小さな箱の中に入れられ水に流される。
ついで、その子供は、動物あるいは身分の卑しい人(牧人)によって救われ、牝の動物あるいは身分の卑しい女性によって乳を与えられる。
成人するにいたって、かってのその子供は、波乱万丈の道を辿って高貴な両親に再会し、一方では父親への復讐を遂げ、他方ではその真の素性を認められ、偉大な権力と栄光を得る。
これは最近読んでいるフロイトの‘モーゼと一神教‘の一節である。
こんなことが本のごく最初に書かれていることから感じられるようにとても面白い本である。
とにかく、英雄伝説をパターン化しているところが面白いし、たしかに納得である。
ちなみに、ラブロマンスの標準形はトリスタンとイゾルデだと思っている。理由はロミオとジュリエットはこれを下敷きにしているし、ウエストサイドストー^リーはロミオとジュリエットを下敷きにしているから、、、、

大阪統一選挙と世代の重心の移動

2011年12月 5日

大阪統一選挙についてどこかで世代別得票率の分析をしていないかと
思っていたら昨日、日曜日のテレビ番組でまさに世代別の得票率を
出していた。
維新の会の候補の得票率は以下の通りである。
60代以上     50%以下
50代       60%強
40代       60%強
30代       70%強
20代       60%強
やはり維新の会の支持層の重心は30代にある。
これを見て、1970年代の半ば頃から増えてきたといわれる
インディゴ チルドレンのことが思い浮かんだ。
そろそろ、彼らが時代のイニシアティブを握る時が来たのか?
既存政党が全否定されたような選挙だったが、既存政党が
このままであれば今回の傾向は続くだろう。
それでは既存政党が対等に維新の会と戦えるためには、、、、
既存政党の世代の重心が30代にまで若返らせることが唯一
の対抗手段ではなかろうか。

大学教育と就職

2011年12月 1日

今日から就職活動の会社訪問など、解禁だそうである。
以前のブログで書いたように、企業は積極性があり、コミュニケーション
が出来て、チームのメンバーの一人としてチームワーク良く仕事の
できそうは応募者を選ぼうとする。
受験する学生は、企業の求めている人物像をおもんばかってか、自分が
いかに積極的でコミュニケーションがうまく、チームワークに優れている
かを経歴書に書き、面接となればそれを強調する。
ただし、それらをどこで身に付けたかというと、大学の講義を通じて、と
答えたり書いたりする応募者は無く、おおよそすべての応募者はサークル活動
の委員の経験からリーダーシップを身につけ、バイトから仕事に対する積極性
とチームワークを学び、海外旅行からコミュニケーションの重要性を学んだ、
と言う。
そこで、企業側は採用!となるのだが、そこには大学を卒業した応募者を
採用するのにも関わらず、大学の講義から学んだことはほとんどなく、あると
すればその大学の名前だけである。
どうもこの辺りがすっきりしないので、偶然見つけた`学問の進め`の現代語訳
を見てみた。すると最初の数ページにその答えが書かれていた。いくつかのフレーズを適当に抜粋する。
福沢諭吉著、斉藤孝訳 現代語訳 `学問のすすめ`(ちくま新書)
人は学ばなければ智にならない。智のないものは愚かな人である。
世の中には難しい仕事もあるし、簡単な仕事もある。難しい仕事をする人を地位
の重い人といい、簡単な仕事をする人を地位の軽い人という。
おおよそ心を働かせてする仕事は難しく、手足を使う仕事は簡単である。
天は高貴を人にあたえるのではなく、人の働きにあたえるのである。
学問とは、ただ難しい字を知ってわかりにくい昔の文章を読み、また和歌を楽しみ
詩を作る、と言ったような世の中での実用性の無い学問を言っているのではない。
一生懸命やるべきは普通の生活に役立つ実学である。
以上、`学問のすすめ`の最初のところの抜粋であるが、これが正しいとするなら
大学ではサークル活動とバイトと海外旅行を必須とし、今提供しているほとんどの
講座を選択科目としてみてはどうだろう?
あるいはコミュニケーション、チームワーク、リーダーシップを養成する科目を
必須科目として入学初期のカリキュラムに整備すべきではなかろうか。
もし、大学にそのようなカリキュラムがまだ整備される段階に至っていないとすれば
大学外でもよい、体系的にこれらを養成する仕組みがあれば、現状に見られる求人側と求職側のミスマッチが改善されるはずである。
理想的には義務教育の範囲内でこのようなコミュニケーション能力、チームワーク、リーダーシップの養成がなされることだろう。

京友禅の工房

2011年11月29日

先週、京都に出かけて、京友禅の制作プロデュースをしている方を訪問。
京友禅の技術を活かした今に通じる何か商品を企画開発する相談である。
10月の上旬に赤坂のテレビ局前で京都の伝統技術を活かした商品の物産展が開かれていた。知人が企画していた展示会だったので何を見る、というあてもなく出かけたのだが、その中で偶然にも友禅の染めを使ってなんの変哲もない帆布のトートバッグにボーダーでアクセントをつけたしゃれた商品をみつけ、その場で売り物でなにのに一つ譲ってもらい、それがきっかけでこれらの友禅染を活用した商品をプロデュースしている方と知り合う機会をえた。
`そめてん`というグループを組織し、新しい京友禅の活用を試みている人である。
先週はその方にお会いし京友禅の現状を知りたいと思ってうかがったわけである。
おおよそ友禅のことは人に聞いたりして着物に染め上がったものは見たりしていたがその製造について知るのは初めてである。
まず、驚いたことに下絵描き、その絵から絹地にその下絵を写しさらに下絵部分にノリ染めのノリをおいたり、蝋をおいたりする作業、そのノリをおかれた絹地を染めて、蒸して、ノリを流す作業、さらに染め上がったものに絵を刺したり、金箔をおいたりする作業、出来上がった反物を仕立て上げる作業、、と細かい作業ごとに専門の
職人がいて、その職人の間を絹地がまるで工場の機械の間を縫って動くように移動していちまいの友禅染めの着物に仕上がって行く。仕上がった着物は呉服問屋から呉服屋に出て行くのだがその最大手は大手百貨店の呉服部門であったという。
この中で呉服問屋は商社、プロデューサーの役割を果たしていたのだが呉服が廃れ、百貨店が弱くなるのとともに問屋も力を失い、数も減ってきた。現在は京呉服のビジネスは1980年代のピーク時に比べて20分の一の規模になっているという。
制作工程のそれぞれの作業を行う職人集団も以前は10人、20人と同じ加工を行う職人が集まり仕事をしていたものが、現在では2、3人というほぼ極限の規模にまで縮小されてしまっている。
製造工程が細かくわかれ専門化していることは大量に作る場合には適しているが今のような衰退期になるとその工程の一つの職人がいなくなってしまうと京友禅の制作の全工程が動かなくなってしまう。
そこで、京友禅の技術と職人を確保するためには呉服の仕事だけではなく新しい何かを商品化することを目的として出来たのがこの`そめてん`のグループである。
実はもう一つ、富山の方の伝統技術の継承に関する研究プロジェクトに関わっている。京友禅の場合も富山の場合も伝統技術の継承と活用がテーマだが少々ことなっているのは京友禅は積極的に新たな商品開発に展開しようというところに重点があり、富山の方は伝統技術の継承そのものに重点がある。
ただ、富山の伝統技術の継承のプロジェクトでも単に技術継承だけでは生きた技術の継承にならない、という懸念がある。
技術を生きたまま継承するには現代に通用し市場価値のある商品を作り出すことである。
京友禅と富山のケースの双方を見ていて感じるのは技術に関してはその価値を評価され技術保存のための施策があったりするが、技術を今に活かす手だてがまずは得られていない。
以前から技術を活かすにはどんな機能が必要か、考えていたのだが今回の友禅の勉強に出かけてわかったのは問屋構造に代わる機能がないことである。
技術が残ってもそれをファイナンスしプロデュースしていた問屋がなくなると市場、顧客とのパイプが切れてしまう。実は既にほとんど切れている。それに代わるものは商社だろう。それも大商社の必要はない。ある意味ではマーケティングプロデューサーとも言うべき商社機能を作ることができたら
これらの技術がまたビジネスプロセスの中で回りだすだろう。

ヨーロッパでは馬具、とくに乗馬の鞍などをもっぱら作っていたところが馬から車に移動手段が変わり、鞍など馬具の需要が無くなると、消えてしまった馬具やもあるだろうが、馬具やのなかにはその鞍を作る技術を使ってバッグ、トランクなどを作りファッションブランドに転身した例がいくつもある。
出来上がった製品であるバッグと鞍を見ている限りその共通点は簡単には見いだせ無いかもしれないがそのベースになっているのは革の扱う技術と縫製の技術である。
京友禅も呉服の染め技術という捉え方からそのエッセンスの染め、あるいは下絵のデザイン、高度な分業工程などの特徴を生かしてその上に新しいビジネスを生み出すことが出来るはずである。そのためにいま欠けているのは技術と市場をつなぐ企画能力を持った商社である。商社であるからにはファイナンス機能も必要でありこのような場は地方の金融機関が目をつけるところではないだろうか。

大学が教えること、学生が学ぶこと、企業が求めること

2011年11月25日

大学、学生、企業について前回の続きである。
この三つはあたかも相互関係があるがごとく、就職、あるいは就職率でつなげて論じられることが目立つ。
たしかに大学を出るとかなりの人が企業に就職する。だからといって大学は学生が卒業して就職する前工程であるわけではない。
なぜなら、大学には卒業したら企業に就職すること、などという条件は入学時に学生に課しているわけではないからだ。仕事に就く、あるいは働くということであれば義務教育を終えたら人はいつでも働ける状態にある。にもかかわらず高等学校に進学し、さらに大学に進学した後仕事に就く。そのように考えると実は大学に進むのは必ずしも仕事に就く前工程として進学するのではないと言える。
したがって大学で教えることは学生が就職するということと必ずしも結びつかねばならないということはなさそうである。大学卒業生の就職率が低いことと大学教育とを結びつけて議論することは必ずしも必要でなく、就職率はあくまで求人と求職の需給関係で決まって来るのであって大学の教育とはある意味で無関係であることをはっきり認識しておくべきだろう。そうでないと大学で教えることがあいまいになる。
企業は確かにコミュニケーションがきちんとできてチームワークもよくリーダーシップのある人材を求めているだろう。だからといってそれが大学の教育と一致しなければなら無い理由はどこにも無い。むしろ、これらの三つの要素が働くということで求められる基本素養であるならば中学を卒業するまでの義務教育の間に生徒にもたせるような教育をすべきだろう。
本来中学で学んで身に付けておくことが出来ていないからといって、大学で学ぶ4年間の時間を割いてその不足分を教育するのは大学として教えるべきことを犠牲にしていることになる。
大学は就職率などに惑わされること無く大学として何をどのようにして学生に学ばせるかについてさらに厳しく取り組むべきであろう。
自分は非常勤ではあるが大学で教える機会を得ている。担当している講座の講義の準備をしているとき、あるいは講義しているその瞬間にも自分は何を教えているのか、という疑問にぶつかることがある。教える機会を得てもう何年かになるが最近は講座のテーマを通じて考えるということ、考え方を教えたくて教えているのだ、と気がつき始めている。

大学で教えること、学生が学んだこと、企業が求めるもの

2011年11月22日

就職活動に絡んだはなしである。
大学で教えていることは主に学問、知識で理工系では技法も習う。
学生が学生生活で身に付いたと思っているとトップスリーは、
バイトを通じてチームワークを身につけ、お客様の重要性を知り、
クラブ活動を通じて人をまとめるというリーダーシップを発揮し
、そして海外旅行を通じていろんな人々とコミュニケーションが
できたこと、という。
つまり、彼らの教室はバイト先であり、クラブ活動であり海外旅行
である、
企業が求めるのはコミュニケーションの出来る人、仕事でリーダー
シップが発揮できる人、lそしてチームワークの出来る人、である。
企業側と学生との意識は一致している。ただ、大学だけがこれらとは
無関係なごとく学問を扱っている。 
どうも社会と学生の間で大学が遊離しているのではなかろうか?