刑務所の受刑者まで投資対象にするGS

2013年4月11日

ニューヨーク州の刑務所の話である。
刑務所に入っている受刑者が刑期を終えて社会に出てもまた戻ってくるケースが多いという。
特に若年受刑者にその傾向が強いという。
刑務所に収容するにはそれだけのコストがかかるので出所後に犯罪を起こし、また戻ってくるケースが多いとどんどん収容しなければならない受刑者が増えてくる。
この再犯受刑者が多いことがニューヨークの刑務所の問題であり、費用の点からはニューヨーク州の負担である。ところが、受刑者に対して再犯防止の研修を提供しているNPOの研修受講者には再犯で戻ってくるケースが少ないというのでこのNPOの研修が注目されている。ただし、このNPOの研修を提供してもらうにはそれなりの費用がかかる。
そこでゴールドマンサックス(以下GS)が考えたのはHPOのサービスを投資の対象と考えてNPO活動によって減った再犯受刑者から生み出されるニューヨーク州の費用の節減のある割合をリターンとして受け取る投資プログラムである。
その投資プログラムとはl、GSが資金を提供してNPOを雇う費用を州の刑務所の運営を担当する部局に提供する。部局はその金でNPOを雇う。NPOは受刑者に対して研修を行う。その結果、再犯で戻ってくる受刑者の比率が下がって、州の部局の予算が節減出来た金額の割合に
応じて、GSはリターンをもらう。
つまり受刑者の再犯率を対象にした投資プログラムである。
一見GSには担保が無いように見える。ところが、このニューヨーク州に限ってはニューヨーク州知事のブルーんバーグの個人財団がGSの提供した金額の75%を保証している、というわけである。
なにかおかしくないだろうか?
本来ならば、犯罪発生を抑えるように社会としては投資すべきではないだろうか?
しかし、犯罪を抑制したからといってGSにとっては投資モデルとならないので
犯罪者の再販を抑制するプログラムを投資対象にしているのである。
これでは、犯罪者が増えれば増えるほど再犯防止プログラムによる効果は上がり、その結果GSの投資はたくさんリターンが取れるようになる。
見たところ最もらしいが、どうも釈然としなくはないか?いかにもGS的だが、、、

2013年度表現工学科講義(1)

2013年4月 9日

今年も、今日、2013年4月9日(火曜日)から
早稲田大学の表現工学科での講義をはじめます。
講座のタイトルは6年変えに始めたときから変わらず
「コンテンツ、クリエイティビティ、ビジネス」です。
ただ、例年通り,内容は毎年変化しています。
第一回の講義の資料を添付します。

人生の運転はバックミラーが頼り

2013年4月 6日

今年で、平均寿命に手が届く年代に入った。
さて、これからどうするか、と考えはじめたときに気がついたことがある。
先を見ようと思ってみたら、自分の人生,見ているものは時間のバックミラーに映っているものばかりが見えているのである。時間の後ろは見えているが前は見えてない、こんなことに今頃気がついた。
目の前に見えているものは時々刻々過去になって行く姿かたちであり、決して先が見えている訳ではない。スケジュール表を見れば確かに向こう何週間かの予定が書き込まれている。
しかし,それは予定されている行動であって、その行動の結果は何も判らない。
行動して,結果があって、その結果が次をもたらすのだからスケジュール上に予定が書かれているといっても先が見えているわけではないのである。
そうなると、バックミラーに映っている過去からこれから先に向けて一体なにが判るのか,何が類推できるのか、何が予測できるのか、、、それに重要な意味があるように思えるし、それしかこれから先をしる手がかりは無い。
そうおもってこのところバックミラーに映っている過ぎて行く過去の様子をみていると,映っているものがどんどん変化している。どうも去年から今年はある種のターニングポイントに来ているのではないか,という気がしている。
どんなターニングポイントなのか,もう少しバックミラーに映るものを丁寧に分析してみると浮かび上がってくるだろう。
過去の分析は意味が無いと思いがちであるが,これから先を知るために持っている情報は
過去の事実だけである。過去の事実を見据えることによってこれから先が見えてくる。その意味で,過去を知ることは大切である。

三か国語が同時に学べる本

2013年4月 4日

ごく最近、こりもせず語学テキストを買った。
フランス語、イタリア語、スペイン語が同時に学べる本、というタイトルの語学テキストである。
このことを先日フェイスブックに書いたら、親切な友人が二人、コメントをくれた。
ひとつは、「二兎追うもの,一兎をも得ず。まして三兎なんて、、、」というコメント、もう一つは「語学にには王道のみ」というコメント。
私の友人にもまっとうで親切な人がいることを実感した。ところが、わたしのもくろみは、、、三兎を追うのだから二兎は逃げても一兎はつかまるだろう。この三つの中で学びたいのはイタリア語だから、、、、
世の中たしかに王道は確実であるが、王道は一つしか無い。それに対して抜け道や裏道は沢山ある。語学にも抜け道、裏道がるのではないか、、、
こんな気持ちでこのテキストに手をだした。
伊藤大吾著、ナツメ社出版、1830円+税
そもそも、急にイタリア語をかじりたいと思ったのはテレビで新しく始まったシシリアの刑事物語を見てからである。この番組,とても面白い。最近流行の科学的捜査ものではなく、完全なる人間浪花節的捜査物語である。話されている言葉は純粋のイタリア語かどうかわからないがとても歯切れがよく、聞いているとけっこう知っている単語が出てくる。
そこで,少しイタリア語を知ったら番組をもっと楽しめるのではないか,とおもったのがきっかけである。
本屋で最初はイタリア語のテキストを探していた。定番の某放送局のテキストは買った。
その,探しているときに目に入ったのが上記の三か国語が同時に学べる、というテキストである。もう,残り時間は限られている年齢なので、これは素晴らしい!と思って購入した。
4月1日からテキストに取り組んで昨日で三日たつから今日取り組めば三日坊主ではなくなる。
ところで、このテキストを見ていて気がついたことがある。このテキストは語学テキストでありながら、ラテン語をそのルーツとする三つの言語の比較言語学のテキストであることが判った。
そこで、もう既に初期の目標は半分放り投げているのだが、イタリア語を習得する目的からいまや比較言語学が学べる、という勝手な目標に変更している。
イタリア語だけではたいしたうんちくにはならないが,三か国語の比較の話題ならうんちくにもなりそうである。

テレビドラマでの面白い話

2013年3月26日

先日、アメリカのテレビドラマをCSで見ていたら,にやり、とするところがあったので紹介する
ある女性がその女友達と久しぶりに高校の同窓会のパーティーに参加したときのことである。
パーティーの会場で向こうから大柄な派手なつくりの女性が手を振ってやってくる。しかし、だれか思い出せない。
相手はとても親しかったがごとく名前を呼ぶ。仕方が無いので「あんた、だれ?」と聞いたら『デビーよ」デビーなんて友達はいなかったし、耳にしたことも無い。変な顔をしていたらちょっと太めの声で「デイビッドだよ」という。驚いて叫んだら「今は,デビーなの」と言われて、高校時代のボーイフレンドだったことに気付く。ニューハーフになっていたのである。
その後は女友達と二人でバーのカウンターでやけになって酒をみながら、、「でも、デビーはレズ専らしいから、わたしにもまだチャンスはあるわ」という発言が印象的だった。

最近舗道でこわいもの二つ

2013年3月26日

このところ舗道を歩いていて何度か怖い思いをしたことがある。
ひとつ
高齢者女性がハンドルさだまらず、目が据わってフラフラ走ってくる
自転車
ハイスピードで走っている若者の自転車よりも怖い
相手が避けてくれるとはおもえないので舗道なのに歩行者が避ける
ふたつめ
スマホを睨みつけながら前もみずにバギーを押しているヤンママ
「そこのけ、そこのけ,バギーが通る」という感じである。後ろから来るときが怖い。追突される。
ある日、前から高齢者女性の自転車がふらついてやってきた。こちらは、ヤンママのバギーを追い越してやり過ごしたばかりである。
ぶつかられると嫌なので左に飛んで避けた。後ろにはバギーである。
まさに自転車とバギーがぶつかる寸前、自転車が右側に倒れたが、がっしりした中年の男性がいたのでかろうじて抱きとめられた。
そのときの自転車の女性のおびえたような目とバギーのヤンママの睨みつける恐ろしい目が印象的。

新聞が読めなくなる日

2013年3月12日

この週末に、新聞に関して気がついたことがある。
自分の新聞の読み方がすっかり変わっているのである。
記事は主にその見出しだけを見る。上手に見出しがつけてあったら
それだけで十分内容を推測することが出来る。
その他では広告を見ている。意外に丹念に見ている。
二つの新聞を取っているのだが、広告が重なるところがとても
少ないのが面白い。
確か,半年くらい前はきっちり記事を読んでいた記憶がある。
最近は,見出しを見れば十分で内容はたいしたことはない記事が
ふえたのだろうか?
そうではない。
気がついたのは,実は記事の本文の文字が目が悪くなっていてとても
読みづらいのである。だから、見出しとか,広告とか,文字の大きい
部分しかみなくなってきている。
新聞はネットに変わって行く,と言われているがある年齢から上の
人たちにとっては生活の習慣となっている新聞は簡単にやめられるもの
ではない。
高齢の読者はどんどん目が悪くなって行くだろう。
本文が読みづらくなる読者が増えてくることは間違いない。その人たち
は新聞に愛着があったとしても、読めなくなればおのずから購読しなく
なる。
今後、新聞の読者が現象するおおきな要因は文字が読めなくなるから、に
なるのではないだろうか?
どこか,今の1.5倍、2倍の大きさの文字の新聞を作ってくれないだろうか?
そうすればもうしばらく読むことができる。
各紙のなかでどこか、この大きな文字サイズの高齢読者向け新聞をつくったら
その新聞は高齢者のオピニオンリーダーになれること間違いなしである。

企業業績は上がっても給料は上がらない?

2013年3月 6日

政府の経済政策のてこ入れ期待で株価は上がり、円は下がり、企業業績のアップが期待されている。
一方では、企業業績は良くなっても給料は上がらないのではないことを心配する声が高い。
総理大臣自ら財界に対して業績の改善を給与増に反映するように、と要望する昨今だからこの心配は本物だろう。
それでは、なぜ経営者は業績が回復しても必ずしも給料を上げないのか?
推測するに、経営者に対する評価基準にその遠因がある。
多くの経営者の賞与は業績、つまり収益にリンクしている。収益が高ければ賞与は増える。したがって、経営者としては出来るだけ収益を高くしようとする。
また、収益が高ければ株価は上がる。したがって、ストックオプションを付与されている経営者は株価も上げようとする。そのために収益の極大化に努力する。
昇給にまわす財源があればそれを利益として確保しておきたい,と思う訳である。
収益が十分あがって、それ以上増えても賞与が頭打ちになるくらいに収益が上がればその賞与の限界値を超えた分は昇給に回る可能性がある。
給与を上げることは働くものの意欲を高め、けっかとして 企業活動が活性化され収益増に結びつく。しかし、これは長期的視点にたった時の効果である。
経営者が四半期ごとの決算に一喜一憂し、4、5年で任期を終えて交替するのであれば長期的な視点にたった施策ではなく、この期間の期間収益を最大化する行動をとるのは当然である。
したがって、業績改善が給与改善に結びつかない心配が起きてくる。
解決方法は、経営者の評価指標のなかに収益だけでなく、従業員に対し、また社会に対する対応を指標として加えるとともに、株式市場が企業を評価し株価を決定するときに複数の視点から企業業績を評価し、それが株価に反映されるようなメカニズムを導入することだろう。
もう一つは経営者の就任期間をある程度長くし、経営者が短期的収益改善だけでなく長期的な施策に配慮せざるを得ない環境をつくることである。

携帯電話は21世紀最大の宗教(?)

2013年3月 6日

メディアはときに宗教であり、宗教は明らかにメディアである。
20世紀の最大のメディアはテレビだろう。
大宅壮一が言ったように、テレビが国民総白痴化を推進したとしたらあきらかにそれは宣教的活動であり、白痴化宗教だろう。
もっとも、テレビを見る人がどんどん減っているのはその宗教パワーの減退現象だが。
似たような意味で、携帯電話は宗教である。いつでもどこでも誰でも使えるが故にてエビよりもずっと大きく影響力のある宗教である。
宗教とは頼りにし,依存し,救いを求めるものであるとすれば、今のちまたの携帯電話利用者を見ているとまさに、携帯電話を頼りにし、携帯電話に依存し、携帯電話に救いを求めるがごとくアクセスしているからである。
街中で、いかに混んでいようと突然立ち止まって操作したり、周辺の歩行速度とは無関係に歩きながら携帯電話を覗き込んだり、、、、電車の乗り降りの際にも、ラッシュ時など気にもせず携帯電話に見入ったままのろのろと乗降しているとか、、、
交差点とか電車の中をみていると周囲とは無関係に携帯電話の画面に目が張り付き視線が固まっていて指だけが動いている、、、、いかにも信者が教祖様のお告げに見入り、聞き入っているさまである。
だれか、携帯電話でメッセージをやりとりしているトラフィックの間で割り込んでメッセージに手を加え、宗教的お告げのメッセージなどを挟み込んだりしたら、、、こんな宣教活動を考えつく宗教があったとしたらまさに携帯電話は宗教になるのでは?